キリン、サッカー日本代表の協賛のきっかけは「たまたま…」 語り継がれる逸話

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サッカーW杯アジア最終予選対オーストラリア戦で、ゴールを決める浅野拓磨=8月31日、埼玉スタジアム

 来年、ロシアで開かれるサッカーのワールドカップ(W杯)に日本代表が出場する。

 1998年のフランス大会から6大会連続出場。もちろん21大会連続出場を決めたブラジルなど、上には上がいるが、近年の日本サッカーの実力伸長ぶりは大いに誇っていい。

 Jリーグの充実やユース世代の強化、それを支えるサポーター層の普及拡大など、日本サッカー協会(JFA)関係者の努力は他の競技の範となっている。

 その日本サッカーを長く支えてきたスポンサー。中でも、飲料大手のキリンが果たしてきた役割は大きい。

 1週間前の8月31日、日本代表は埼玉スタジアムで行われたオーストラリア戦に2-0で勝利、W杯出場権を獲得した。そのとき、東京・品川プリンスホテルでは同社主催のパブリックビューイングが行われていた。

 「みなさん、いきますよ。せーの、乾杯!」

 代表ユニホームに身を包んだ俳優、香川照之さんの発声で、およそ100人の参加者が手にした缶ビールを掲げ、勝利を喜びあった。元日本代表の岡野雅行さんや川口能活さんも加わった歓喜の様子は、同時中継されてお茶の間にも伝わった。

 テレビ朝日系が生中継した試合に連動した、日本初の「試合結果連動生CM」である。

 テレビを活用したこうした試み、もし負けたらというリスクも伴うから簡単には踏み切れない。そこを突破したキリンとテレビ朝日の思いを、香川さんがこう代弁した。「生放送の力はすごい」

 たまたま、ご近所

 思えば、キリンがサッカー日本代表の協賛を始めたのは1978年に遡(さかのぼ)る。

 もはや有名になりすぎた逸話だが、背景は「たまたま、ご近所だった」からに過ぎない。

 当時、JFAは現在の文京区本郷の「サッカービル」ではなく、渋谷区神南の岸記念体育会館に事務局を置いていた。キリンもまた、渋谷区神宮前に本社があった。中央区新川を経て、現在の中野区中野に移転する前である。山手線を挟んで、大きく「原宿」の、いってみれば町内会のような関係だった。

 サッカーはまだ、冬の時代である。強化、普及のためには戦う場、いや何より財源が必要とされた。だが、弱い日本サッカーには有力なスポンサーはいない。

 そんなある日、JFAの長沼健専務理事(後にJFA会長。故人)はキリン本社を訪ねた。戦う場の創設を手伝ってもらいたい、という話である。

 当時の小西秀次社長は、話を聞くと、「わかった」。そこで誕生したのが本格的な国際試合の「ジャパンカップ」、後の「キリンカップ」「キリンチャレンジ」であった。

 近所の誼(よしみ)、当時流行し始めた社会貢献への意識もあったのだろう。生前の長沼さんからこんな話を聞いたことがある。

 「いつも窓越しに眺めていたロゴが印象的でね。ダメもとで、ちょっと行ってみようか、そんな気持ちだったんだよ」

 偶然の出会いを必然に変えたのは「理詰め」といわれる同社の社風だろうか。1993年のJリーグ開幕、2002年のW杯日韓大会開催、何より1994年イタリア大会最終予選の「ドーハの悲劇」から注目を集めるようになっていく日本代表戦…。社会に浸透するサッカー文化の醸成に意義を見いだしていったのではないか。

 企業がひとつのスポーツを集中して支援し続けていくには覚悟がいる。時代や経済的な背景を乗り越えていかなければ、その思いは頓挫しかねない。

 パートナーに格上げ

 日本サッカー伸長の側には、いつもキリンがいた。こうした例には、ラグビー日本代表の大正製薬がある。昨今、障害者スポーツ支援に乗り出す企業がクローズアップされているが、ぜひ、キリンや大正製薬を範としてほしいと心底思う。

 キリンは2015年4月、新たにJFAとの間で22年末までの7年9カ月に及ぶ公式パートナー契約を結んだ。それまでのスポンサーから、パートナーへの格上げ。年間25億円、総額200億円におよぶ大型契約で、関わりをさらに強めていく。

 ロシアW杯が開かれる来年、関係は40周年を迎える。次世代への普及、浸透に、キリンがどんな手を打っていくのだろう。(産経新聞特別記者・佐野慎輔)