存亡の危機 現実の「息づかい」が見える 産経新聞論説委員・清湖口敏
視点「このあたりの文章からは、太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる、そんなものは少しも書いてないが」。『平家物語』と題する小林秀雄の評論の一節だが、私たちはここから「息づかい」の見える文章とはどういうものかを学ばねばならない。
さて、今年も「国語に関する世論調査」(2016年度、文化庁実施)の結果が公表された。目を引いたのが「存亡の危機」である。調査では「存続するか滅亡するかの重大な局面」について「存亡の機」を使うか、「存亡の危機」を使うかと尋ねている。結果は、「存亡の機」を使うと答えた人がわずか6.6%だったのに対し、「存亡の危機」を使う人は83%にも上った。
文化庁の報告は「存亡の機」を「本来の言い方」と示しただけで、これを正しいとも言ってなければ、「存亡の危機」が誤りだとも言ってない。しかし少なくとも私の周囲では「存亡の危機」を誤用と受け止める向きが圧倒的に多かったのである。世間にはどうやら言葉の正誤を必要以上に峻別(しゅんべつ)したがる人が少なくないようだ。
■
そこで考えてみた。国家にしろ企業にしろ存亡即(すなわ)ち「存続か滅亡か」が問われるのは、決して無事の日ではなく、危機が切迫した局面であるはずだ。存亡の「機」が常に「危機」である以上、本来の言い方か否かはどうあれ、「存亡の危機」を誤りとする根拠は極めて薄弱といわねばならない。
では「存亡の機」を「本来」とする理由は何なのだろう。次の2つが思い当たる。
諸葛亮の「出師表(すいしのひょう)」を出典とする言葉に「危急存亡の秋(とき)」があるが、この秋とは機(時機)のことだから、「存亡の秋」は「存亡の機」とも言い換えられる。したがって「存亡の機」が本来の言い方であるというのが第1の理由だ。いま一つは、存亡には「亡」とともに「存」の意味もあるから、存亡の岐路に立ったところで必ずしも危機とはいえないという理屈である。
なるほど、論理的にはそうかもしれない。手元の数種の国語辞典にあたっても、大抵が「存亡の機」や「存亡の秋」を用例に載せ、「存亡の危機」を掲げる辞書は一つもなかった。
それでも私は、あくまで個人的な見解ながら、「存亡の危機」も「存亡の機」同様に、本来の言い方、正当な表現だと認定してやりたいのである。
ご紹介したいのが「帯説(たいせつ)」だ。帯説とは「字音語の熟語を構成する漢字のうち、対極的な用法を持つ一方がその文脈においては積極的に意味を持たぬもの」(新明解国語辞典)をいう。「緩急」は、互いに対立する意味をもつ「緩」と「急」で構成される熟語だが、これが「一旦緩急あれば」というふうに用いられた場合、緩の字が全く意味をなしていないことが分かる。恩と恨みを表す「恩讐(おんしゅう)」も、「恩讐を超えて」「恩讐の彼方(かなた)」などというとき、そこに恩の要素が入る余地はない。このような文脈での「緩」や「恩」が帯説である。
「存亡の危機」の「存」も同様に、ほとんど意味をもたない帯説だと考えれば、これも十分に理にかなった「本来の言い方」といえようか。いやむしろ「存亡の危機」こそが、現実の息づかいを感じさせる生きた言葉ではないかと思えてならない。
■
わが国は今、核・ミサイル戦力を誇示して挑発を繰り返す北朝鮮や、日本領域の奪取を虎視眈々(たんたん)と狙う中国の強い脅威にさらされている。まさしく国家「存亡」の瀬戸際であるこの非常事態を、「危機」と呼ばずして何と呼ぶのか。
「平家の真正な原本を求める学者の努力は結構だが、俗本を駆逐し得たとする自負なぞつまらぬことである。流布本(るふぼん)にはいわゆる原本なるものにあるよりも美しい叙述がしばしば現われる」(『平家物語』)。
小林のこの一文になぞらえて言うなら、仮に俗用だとしても「存亡の危機」は、世に広く流布するなかで現実の空気を呼吸し続け、国語学者らが“真正”と捉える「存亡の機」なんかよりずっと生動感あふれる言葉に育っていった。
現下の国難を恐怖する者にとって「存亡の機」とは、ああ何と悠長で間延びした、無味無臭でニュートラルな、いかにもすっとぼけた嘘っぽい響きであることか…。
関連記事