■初期の外国人留学生と曹汝霖
「学員名簿」などによると、1904(明治37)年から22(大正11)年までの間に清国からやってきた留学生は約300人に達していた。曹汝霖は当時の留学生の一人。清国が滅びた後の中華民国で政府の要職に就き、日本との交渉に当たるなど活躍したが、曹のような人物よりは、地道で着実な人生を歩んだ人が多かったという。
大学史は《いわゆる「華美を排し質実剛健」という「学風」にマッチしているように思われる》と記している。
■ベルリン日本大使館に会した学員(卒業生)と留学生
1924(大正13)年の某日、ベルリンの日本大使館に中央大学の学員6人が顔をそろえた。写真中央の駐独大使・本多熊太郎は推薦学員、その向かって右は19年卒業の書記官・須磨弥吉郎。本多の左に第1回海外研究員としてドイツに派遣された天野徳也、左端にいるのが卒業後、ベルリンなどで法律哲学を研究中の柴田甲四郎。後列右はライプチヒ大学留学中の中村武、同左は商法研究のためドイツに来ていた升本重夫、のちに学長を務めることになる升本喜兵衛である。6人は時間を忘れて歓談したという。
■長谷川如是閑と杉村楚人冠
如是閑は1898(明治31)年、23歳で中央大学に改称する前の東京法学院を卒業し、新聞「日本」の記者を経て「大阪朝日新聞」に入社した。そして大正デモクラシー運動を先導するが、筆禍事件の責任を取って退社。以後は雑誌などで国家主義やファシズムを鋭く批判し、戦後も幅広い言論活動を行った。1948(昭和23)年文化勲章受章。
「楚人冠」の名は「東京朝日新聞」のロンドン特派員として書いた見聞記で使った筆名。それをまとめて出版した「大英游記」がベストセラーとなって一躍有名に。記者としてだけでなく、朝日新聞社内で絶えず機構・組織改革を発案した。中央大学の新聞研究科新設(1910年)にも尽力した。