【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】小牧・長久手の戦い(愛知県長久手市) 武田の「赤備え」再編し直政奮迅 (2/2ページ)

長久手古戦場近くの色金山歴史公園には家康が腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている
長久手古戦場近くの色金山歴史公園には家康が腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている【拡大】

  • 小牧の戦いで家康が布陣した小牧山。近年の発掘調査で強固な石垣や横堀、土塁などが見つかり整備されている=愛知県小牧市堀の内

 戦いはこれで終わったわけでなく、対立関係は2年半に及んだ。家康に救いを求めてきた信雄だったが、秀吉の攻めに疲弊し、勝手に講和を結んでしまった。三河深溝(ふこうず)の松平家忠が家康側近として仕えた約17年間を記した『家忠日記』によると、「秀吉の三河侵攻に備えて、岡崎城と周辺城郭を改造し女房衆の浜松へ疎開」とある。

 天正14年になると、秀吉は作戦を変え、家康を何とか臣従させることを考えた。そして人質に母の大政所を岡崎に送った。この警衛役にあたっったのが直政で、その奉仕ぶりは秀吉も感謝したと伝わる。(静岡古城研究会会長 水野茂)