お金を沢山もっている人たちが競うようにして寄付を発表する風景を何と解釈してよいか、ぼくにはよく分からない。マーケティング的な要素がまったくないと想像するといえば、うぶに過ぎるだろう。
だが、そこの論議にも足を踏み入れたくない。
ある哀しい事態に直面した時に、素早く頭と心を切り替える大切さは知っている。しかしながら、同時に哀しい事態を深く心に刻むための時間も同様に大切である。例えば、喪に服すとは、そのような時間を肯定的に捉える習慣だろう。
ぼくたちは、時間をかけるべきときはそうしないといけない。時間を短縮させてはいけないのだ。「スピード感」や「切り替えの早さ」という指標を、ここで多用してはいけない。
宗教的建物に相応しい時間の流れ方があるはずで、もちろん、かといって修復に何十年や何百年を要するのも致し方ないと言うわけではない。どの時間を適切かと数字で示すことはできないが、火災の即日でないことは確かではないか。
「スピード感」の罠から逃れることが必要である。
ソーシャルメディア上のめまぐるしい情報拡散によって、世の中の多くの現象がソーシャルメディアに「吸い取られていく」。「消費される」という言い方もあるが、消費されると実感する前に強力な掃除機に吸い込まれるとの印象がぼくにはある。
が、ソーシャルメディアを悪者にする前に、自分たちの時間感覚を再考するのが最初ではないかと思う。