小野但馬守政次(浜松市浜北区) 出自・来歴・屋敷跡も謎 井伊裏切り説に疑問

静岡・古城をゆく 直虎動乱の渦
小野但馬守政次の供養塔は地元有史により保存・整備されている=浜松市北区引佐町

 井伊氏家老は複数いるが、その中でも筆頭家老の小野和泉守政直は井伊直満、直義と、さらに和泉守の子・但馬守政次は直満の子・直親と対立し、今川氏に告げ口し誅殺(ちゅうさつ)に追いやった悪者的な存在とされる。

 歴史上の重要人物であったにもかかわらず出自、来歴について不明で、大河ドラマの時代考証を担当する戦国史研究者の大石泰史氏は「井伊氏一門説」を示しているが、本地は明記していない。江戸期の『礎石伝』(中井家文書)の「旧井伊城及び井伊谷陣屋図」に井伊氏館周辺に直満、新野氏、中野氏らの屋敷は描かれているが、小野氏屋敷は記されていない。

 しかし、最近にわかに浜松市浜北区の小野家が注目されようになった。屋敷裏には墳墓状の微高地に石碑が幾つもあり、江戸後期に建てられた一つに「小野朝臣篁(たかむら)之墓」とある。これは皇別氏系末裔の名族で、飛鳥時代の遣隋使・小野妹子や平安初期の公家、小野篁(たかむら)(802~52年)、歌人の小野小町ら「小野系統に通じる」という興味深い意見がある。

 ここは井伊氏一門の赤佐氏の近くで(浜北区赤佐)、新東名高速道路の建設に伴う発掘調査で一辺が200メートルの居館跡が見つかった場所。あまりにも大規模な館跡であることから、赤佐氏のほか、小野氏の館だった可能性もある。

 話を但馬守に戻す。永禄11(1568)年12月、徳川家康は遠江に侵攻し、井伊谷に侵入した。今川氏真が立て籠もる掛川城攻めの最中に、井伊領の反徳川による気賀一揆が蜂起し、翌年3月の堀川城の戦いで、2千人超が討たれさらし首となったが、但馬守が城に入った史実はない。

 但馬守は、たった1カ月の領主であったが、永禄12年4月に井伊氏館北の二宮神社近くの蟹(かに)淵(ふち)(井伊谷川)で捕えられ処刑されたとされる。桶狭間で戦死した但馬守の弟・玄蕃、その子、朝之は家康に出仕し生涯井伊家に仕えたという。政次の供養塔は井伊谷の中心地にあり、とても「井伊家を裏切った小野」を額面通りには受け取れない。(静岡古城研究会会長 水野茂)