【ローカリゼーションマップ】「言いたいことが言える」ことに寛容な土壌を イタリア人は「お節介」なのか?
ミラノにあるコンテンポラリーアートの美術館に高校生の息子と出かけた。展示スペースによって写真撮影が許可されているところ、禁止されているところに分かれる。それぞれの部屋では1-2人のスタッフが監視している。
写真撮影が可能なある部屋に入った時、一眼レフカメラを手にもった息子に向かい、スタッフの1人が次のように注意した。もう1人のスタッフも頷いているから、申し合わせていたのかもしれない。
「ここで撮影しても良いが、作品をよく観賞したうえで撮影するかどうか決めて欲しい」
いやに押しつけがましい。でもそう言いたくなる気持ちが分からないでもない。まるでレストランの食卓で食べるよりも撮影に夢中になるように、ろくに作品を見ずにスマホで撮り続ける人を沢山見ていると、「ちゃんと見てくれ!」と大きな声で叫びたくもなるだろう。
作品を観賞した後、息子がこのスタッフと雑談したら、スタッフは「もうスマホが悪いのだ!あのカメラ機能のおかげで美術作品の観賞の習慣がめちゃくちゃだ」と憤懣やるかたない様子だ。
このセリフを聞きながら、他のエピソードを思い出した。
デザイナーの友人がロンドンからミラノの空港に降り立った。彼女は黒づくめのファッションに黒い靴を履いていて、唯一ソックスだけがピンクだった。英国好きの彼女らしい。
が、税関を通り過ぎる時、「そのファッションの色の組み合わせはおかしい」と女性職員に言われたのである。
友人はイタリア人のファッションセンスが保守的な点に、心底嫌気がさしたらしい。インバウンド政策からすると、足を引っ張る行為だ。
これらのエピソードから、ぼくは3つのことが言えると思っている(もちろん、似たような他の経験も考慮してだが)。
一つ目は、譲れない自身の審美眼や美意識をもっている人がイタリアには多い、ということだ。
二つ目は、その審美性や美意識を他人に押しつける人がイタリアには多い、ということだ。
三つ目は、押しつける人が多いのは、お節介というだけでなく、人を歯車の1つとして捉える習慣を嫌う人がイタリアには多い、ということだ。「あなたの仕事はこれ」との役割分担を嫌い、それを越えてしまうタイプが目につきやすい。
上記の一つ目と二つ目は割と一緒に語られる。三つ目も語られるが、上の二つとのセットで語られることは少なく、独立して語られることが多い。
実のところ、三つ目は極めて微妙だ。英米のアグロサクソン系企業ほどには、業務分担を明確にしていないことが多い。それでも日本の企業と比べると、イタリアの企業の方が各自の役割がはっきりしている。
そこで「これは自分の仕事ではない」と、余計なことには触れたがらない。つまりはトラブルが生じた時、「これは私の責任ではない!」と言って、他人から責められることから自分を守り抜くのに、全エネルギーを使い果たす傾向が強い。
しかし、こうした組織文化土壌にあっても、驚くことに、エピソードにあるようなお節介が闊歩しているのだ。
他方、これらの行為を「お節介」と呼ぶのが適切なのか、とも考える。
他人の為ではなく、自分の内に沸々と湧いてくる「言いたいこと」を単に抑えきれないだけではないか。しかも時と場所をわきまえず。
日本では「言いたいこと」を過度に抑える習慣を身につける教育がされやすいが、イタリアでは「言いたいこと」に過度に寛容である。それで両国とも違った「困ったこと」が起きやすい。
多分、「両方の良いバランス点を探そう」というのは砂上の楼閣で、どちらかに傾くしかないのではないか。
その場合、イタリアがいい、日本がいいではなく、「言いたいことが言える」ことに寛容である土壌を作るのに懸命になるのがマシだと考える。
文化論における折衷案は、往々にして国内向け社交辞令であるし。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
ローカリゼーションマップとは?
異文化市場を短期間で理解するためのアプローチ。ビジネス企画を前進させるための異文化の分かり方だが、異文化の対象は海外市場に限らず国内市場も含まれる。
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