ヨーロッパを鉄道で旅するなら、ぜひともやってみたいことがあった。それは国境越え。ようやく訪れた機会に、ドイツからスイスへの移動手段として、迷うことなく鉄道を選んだ。
両国はシェンゲン協定に加盟しているから、車内での出入国検査がないことはわかっていた。けれども期待していたのだ。だって国を越えるのだ。何かしら、それらしいことはあるだろうと。
スイスはEUに加盟していないので、税関検査があるかもしれないとの事前情報もあった。しかし検札に回って来た車掌に問うと、そんなものはないという。
まもなく国境の町シャフハウゼンに到着するというころ、車掌が急ぎ足で近づいて来た。「国境を越えることがわかるものがありましたよ。ドイツ鉄道の機関車が切り離されて、スイス国鉄のそれに接続します」
危ない。見逃すところだった。カメラを抱えてあたふたとホームを急ぐ。作業はわずか1分。客車はそのままだから、ほかの乗客はだれひとり降りてこない。というかドイツ国内を走行中から、すでにスイス国鉄所有の客車に乗車していたのだ。
自席に戻ると、のんびりくつろいでいたドイツ人男性が「何かあったのか」と、声をかけてきた。国境を越える。そう言うと、あきれた顔で「ドイツとスイスは、仕事で毎日行き来する人もたくさんいるんだ。シェンゲン協定のおかげで出入国審査がなくなり、旅行者にとっても便利でしょうに」と苦笑する。
金髪の巻き毛をひっつめにして、細い銀縁めがねをかけた女性が、後を引き取ってこう言った。
「わたしはスイス人よ。ようこそ、スイスへ。いまあなたは国境を越えたわ」
取材協力/ドイツ観光局
■江藤詩文(えとう・しふみ) 旅のあるライフスタイルを愛するフリーライター。スローな時間の流れを楽しむ鉄道、その土地の風土や人に育まれた食、歴史に裏打ちされた文化などを体感するラグジュアリーな旅のスタイルを提案。趣味は、旅や食に関する本を集めることと民族衣装によるコスプレ。現在、朝日新聞デジタルで旅コラム「世界美食紀行」を連載中。