
西来院にある築山御前の廟所=浜松市中区広沢【拡大】
今川義元は花蔵の乱で勝利したものの、小田原の北条氏綱は氏親から伊勢宗瑞(北条早雲)に与えられた旧領回復を意図とした「河東一乱」が勃発する。戦いは天文6(1537)年2月から23年7月の三国同盟締結までの17年間、3次に及び、北条軍は今川氏領の駿東郡・富士郡へ侵攻した。
最大山場は天文14年9月の長久保城(長泉町)の戦い。義元は武田信玄の援軍を得て勝利し、氏綱との和睦も進み義元の三河侵攻が再開し、今橋城(豊橋市)の戸田氏、岡崎城(岡崎市)の松平氏など従属させ、いよいよ尾張の織田氏との対決になった。
こうした河東一乱期での井伊氏当主の直平は、義元に加担する動きはなかったが、臣従したとする手掛かりは娘(大河ドラマの佐名)が人質(側室)として義元に送られたことが『井家粗覧』などに、「義元内室、再嫁関口刑部小輔親永、東照神君簾中築山御前之母公是也」とある。
周知のように、徳川家康正室の築山御前の母は井伊直平の娘で、今川氏一門(遠江今川氏)の瀬名氏俊弟・関口親永(義広)へ拝領妻として下げ渡し再婚したことになる。先学では長い間、今川氏と対立してきた直平は、娘を人質に出して今川氏臣従を決めたことで、家督を直宗に譲り自ら身を引き隠居したとする。