【静岡・古城をゆく 直虎動乱の渦】小野但馬守政次(浜松市浜北区) 出自・来歴・屋敷跡も謎 井伊裏切り説に疑問 (2/2ページ)

小野但馬守政次の供養塔は地元有史により保存・整備されている=浜松市北区引佐町
小野但馬守政次の供養塔は地元有史により保存・整備されている=浜松市北区引佐町【拡大】

  • 平安時代の公家・小野篁の屋敷跡と伝える塚と石碑=浜松市浜北区尾野

 話を但馬守に戻す。永禄11(1568)年12月、徳川家康は遠江に侵攻し、井伊谷に侵入した。今川氏真が立て籠もる掛川城攻めの最中に、井伊領の反徳川による気賀一揆が蜂起し、翌年3月の堀川城の戦いで、2千人超が討たれさらし首となったが、但馬守が城に入った史実はない。

 但馬守は、たった1カ月の領主であったが、永禄12年4月に井伊氏館北の二宮神社近くの蟹(かに)淵(ふち)(井伊谷川)で捕えられ処刑されたとされる。桶狭間で戦死した但馬守の弟・玄蕃、その子、朝之は家康に出仕し生涯井伊家に仕えたという。政次の供養塔は井伊谷の中心地にあり、とても「井伊家を裏切った小野」を額面通りには受け取れない。(静岡古城研究会会長 水野茂)