教育、もうやめませんか

福沢諭吉は異議を唱えていた 訳語が違えば日本も変わっていたかもしれない (2/3ページ)

野村竜一
野村竜一

訳語の弊害か

 昨今、人から指示を受けなくては何も生み出せない人、十分な知識を教わるまでなにもできない人、教わったものしか自らの蓄えがなく、教わっていない不足の事態に対処ができない人が社会に多く輩出されていると見聞きする。もしかしたらこれも、明治のはじめにeducationを「教育」と訳したことが、そしてその訳語が人々の学び方を規定したことがそもそもの原因なのではないかと考えることがある。

 130年前の福沢諭吉の文章を読むにつけ、educationとは教えることではなく環境をつくることであり、学びとは、教わることではなく知識や方法論を獲得する方法を自らでデザインすることだという思いは確固としたものとなる。この考えは決して新しいものではなく、また非常識なものではないのだとわかる。我々は現在の環境を当たり前・当然のものとせず、改めて、educationとは何か、学びとは何かを各々考えるべきだ。案外、単に「educationと教育はそもそも違う」という考えが浸透するだけで、現在の(日本の)教育環境は大きく変わるのではないだろうか。

「教わって育つ」 あくまで1要素

 2019年9月に開設する高校生対象の学びの機関「Manai Institute of Science and Technology」(=マナイ)は、educationの本当の意味を問い直す取り組みの集合だ。マナイで行われる活動の中心は生徒それぞれが行う研究プロジェクトである。すべての生徒に共通する時間割や到達目標(カリキュラム)は存在しない。研究の合間を縫う形で、科学・人文多岐にわたるワークショップが用意されこれを生徒が選択する。

 このワークショップの役割は、生徒が研究テーマを見つけるためのもの、また自らの研究に広がりを与えるためのものだ。マナイでの指導者に関しても教師ではなくメンターであるという定義づけを徹底している。生徒にも「教わって育つ」という意味の教育は、educationの単なる1要素でしかないことを徹底的に理解してもらうことになる。

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