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火葬後の人骨解説を「やめてくれ」と思う人たち 死生観を浮き上がらせる“意識の変化” (2/2ページ)

 葬送事情に詳しく、『火葬後拾骨の東と西』(日本葬送文化学会、2007年)の著者のひとりである二村祐輔さんにも話を聞いた。

 「地方都市では、戦後しばらくまで野焼きをしているところがありました。野焼きが済んだ後は、骨はバラバラの状態です。現在のように、ストレッチャーの上で美しく骨を残した状態で骨揚げする習慣は、そんなに古くはありません。火葬場の職員が、丁寧に拾骨している意思表示として、骨の部位の説明がどことなく始まり、それが全国の火葬場に波及していったのでしょう。東京では民間の火葬場が多いですが、喉仏の解説には特にこだわる傾向があるように思います」

 お骨揚げは「グリーフケア」の機能も持っている

 人体解説をする目的は、いくつかありそうだ。ひとつは、二村さんが指摘するように、火葬場職員が「丁寧に拾骨している意思表示」としてである。

 しかし、その説明が裏目に出る場合もある。骨がボロボロになっていれば、「骨粗鬆症ですね」とか、骨に色が付いていれば「治療薬のせいかもしれませんね(因果関係は不明)」など、プライバシーに立ち入った説明をされた場合、遺族の中には「聞きたくない」という感情が湧くこともあるだろう。拾骨の立ち会いに慣れ過ぎた職員がついつい、部位の説明に饒舌(じょうぜつ)になってしまうケースもあり、そこに違和感を抱く人もいるかもしれない。

 骨揚げは「グリーフケア」としての場でもある。遺族は、肉体が消滅し、変わり果てた遺骨を目の当たりにする。「もはや、生き返ることは完全になくなった」。死を現実のものとして、直視せざるを得なくなる。職員による人体解説は、死者と生者との間の緩衝材にもなってくれているように、私は思う。だからこそグリーフケア機能を持つ骨揚げにおいて、逆効果になることは避けたい。

 人体説明拒絶派に知ってほしいこと

 そこで、人体説明拒絶派の方々に、少し知っておいたいただきたいことがある。

 確かに、死後、自分の骨を第三者にジロジロみられて解説されるのはたまったもんじゃない、と考える人がいるのは、投書にある通りだ。しかし、火葬場職員のプロ意識にも、思いを巡らせてもらいたいとも思う。

 私は、過去に何度か、火葬場の取材をした。その光景は今でも忘れられない。およそ800度の温度で焼かれる炉の前での作業は、苛烈を極めていた。遺体は太った人もいれば、痩せている人も、なかには夭折(ようせつ)した子供もいる。職員は真っ赤に燃える炉の中を観察しながら、焼き過ぎて骨がボロボロにならないように、丁寧に焼いてくれているのだ。

 例えば、体調を崩した時、医師の前で服を脱いで聴診器を当てられることに腹をたてる人はあまりいないだろう。それは、医師が病を治してくれるプロであり、患者は医師を信頼して体を委ねているからだ。そういう意味では、火葬場職員は遺体を焼くプロであり、火葬場の空間においては職員に身を委ねるのが「死後のマナー」かもしれない。

 「人体解説をされるのは絶対嫌」な場合の対応策

 そもそも人は、一人では死ねないもの。病院や高齢者施設、あるいは自宅で皆に見守られながら息を引き取り、その後は葬儀社の手に委ねられる。宗教者の儀式も入る。葬式の後も、四十九日などの法要を経て墓に納骨される。遺族のみならず多くの他人に身を委ねざるを得ない。

 仮に天寿を全うした人ならば、骨揚げは孫やひ孫の教育の場と考えてもらえないだろうか。骨揚げは絶好の情操教育の場であるからだ。

 それでもなお、「人体解説をされるのは嫌だ」という人もいるだろう。その場合、生前に遺族にその旨を伝えておきたい。仮に「その時」がきた場合、遺族が骨揚げの際に職員にそっと希望を告げれば、それで済むことである。

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 鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

 浄土宗僧侶/ジャーナリスト

 1974年生まれ。成城大学文芸学部卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)など。近著に『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書、12月20日発売)。一般社団法人良いお寺研究会代表理事。

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 (浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)(PRESIDENT Online)

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