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家族がいてもいなくても(621)思い残し切符

 私の住むコミュニティーに図書室がある。ここで、定期的に芝居のビデオの上映会がある。

 先日は、宮沢賢治をテーマにした井上ひさしの芝居、「イーハトーボの劇列車」を上映するとの掲示があった。

 「宮沢賢治」は、子供の頃から私には特別な存在で、彼の童話や詩にずいぶんと親しんできた。

 井上ひさしの芝居も父と息子と私の3世代で、一緒に観(み)に行っていたりしたので懐かしい。その中で「イーハトーボの劇列車」は、とても観たかったのに観逃していた、そんな作品だった。

 その日の観客は数人、いつも一人で観るテレビを誰かと一緒に観るというのは、なぜか気恥ずかしい。素早く、一番前のソファに陣取って、なんだか身じろぎもせずに画面を見続けてしまった。

 冒頭から、「きれいにすきとおった風」とか「桃(もも)いろの美しい朝の日光」とか、賢治独特の美しい言い回しが出てくる。それだけで、涙がにじんできて、「今、自分はなんだか気持ちが参っているのかなあ…」なんて気がしてしまった。

 「注文の多い料理店」とか、「なめとこ山の熊」とか、「風の又三郎」とかの主人公たちも、イーハトーボの劇列車の乗客として登場。

 劇の仕掛けがとてもシュールな展開なので、賢治に特別な関心を持っていないと、なかなか伝わりにくいかもなあ、という作品ではあった。

 とくに、狂言回しの赤い帽子をかぶった列車の車掌が、人生半ばで世を去った人たちの「思い残し切符」なるものを、まだこの世に残る人たちに手渡していくシーンがあった。

 この「思い残し切符」というフレーズに、衝撃を受けた。

 道半ばで逝(い)ってしまった私の友人たち、さらに父や母に、どんな「思い残し切符」を私は手渡されたのかなあ、なんて思ったら、途方に暮れてしまうような思いがした。

 芝居を見たり、本を読んだりすると、その中の思わぬキーワードで、自分のなにかが触発され、不意に記憶の扉が開いたりしてしまうものだ。

 思えば、「なんべんさびしくないと云つたとこで またさびしくなるのはきまつてゐる けれどもここはこれでいいのだ」と、賢治の詩の一節を呪文のように唱えて、乗り切った時期もあったなあ、などと。

 この日をきっかけに、数日間、賢治漬けの日を過ごしてしまった。(ノンフィクション作家)

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