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自分が住む外国批判を続けると「コミュニティーに入れないかわいそうな人?」 (1/3ページ)

安西洋之
安西洋之

 イタリア人の友人から1冊の英語の本を手渡された。

「この米国人の書いた本を読んで、日本人としての意見を聞かせてくれない?」と。それは日本に詳しい米国人がおよそ20年前に書いた日本文化批判の本だった。

 日本を旅してきたばかりで、日本文化がより好きになったイタリア人の彼女は、この批判があまりに重すぎ、筆者の過剰反応ではないかと疑った。日本人のぼくの口から内容に関する「判断基準の設定の仕方」について聞きたかったのである。

 確かに重量級にストレスフルな内容だ。バブル経済崩壊以降の「沈みゆく日本」を意識した指摘の数々は、あの時代に日本の人が日本語で記述していたもので見慣れていたので(今もその手の論調は残念ながら継続しているが)、そうした厳しい表現をしたくなる気持ちが分からないではない。しかし、米国人が英語で同じようなことを書くと違った印象になる。それをどう説明したら適当か、少し考えた。

 そういえば、この数年、ある英国人の書いた日本経済へ意見した本がよく売れている。よくここまで日本のことを調べているものだなと感心するし、意見には頷く部分も多い。その彼の本を思い出しながら、ネット上で散見する外国に住んでいる日本人の居住国批判の数々も頭に去来する。そして、次のようなことを思う。

 自分が住んでいる「外国」を批判する意味は何だろう?

 ぼくも欧州やイタリアをネタに書くことが多いので、このテーマはいつもついてまわる。

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