この頃は、お天気さえよければ、お弁当を持って、ピクニックに出掛ける。
名付けて、「1人ピクニック」。
首都東京では、家にとどまりましょう、との「ステイホーム週間」中なので、自分だけ好き勝手をしているみたいでなんだか後ろめたい。
けれど、ピクニックは地方住まいの私なりの自粛法。
なにしろ、行き先はほぼだれもいない「原っぱ」なのだから。
昨日も今日も、お昼には食堂に行って、「今日もお出掛けなの?」などと言われながら、ご飯とおかずをタッパーに詰めている。
さらに、部屋に戻って甘い卵焼きを作って加えてみたり、海苔(のり)弁なんかにしてみたり。
そして、魔法瓶にはコーヒーを、リュックには携帯用パソコンを、車にはスコップや古い椅子を載せて出かけて行く。
春の「原っぱ」は、新しい命が芽生えて日に日に変化していく。その姿がドラマチックで楽しい。
今は、満開を過ぎた桜の花びらが少しの風にもちらちらと舞い散っていく。
土筆(つくし)や蕗(ふき)の薹(とう)に代わって、一斉に咲いた蒲公英(たんぽぽ)の鮮やかな黄色が目に染みる。
そんな中、大きな松の木の下に椅子を置き、1人でお弁当を食べていると不思議なほど幸福な思いに満たされていく。
そう、「原っぱ」は、子供の頃、いつも遊んでいた場所だ。小さな草花の一つ一つが懐かしく、郷愁を誘われるのだ。
この茎で草相撲をしたんだ、とか。ままごとでは、このつやつやした葉っぱを巻いて海苔巻きにしたんだったわ、とか。
思えば、それは半世紀以上も前のこと。気の遠くなりそうなほど昔の幼い自分の姿が、まざまざと目に浮かんでくる。
遊んでいた野原には、クローバーの花が一面に咲いていた。
そこで、甘い香りに包まれていると、1人で遊んでいても寂しいと思うことはなかった。
年をいくら重ねてもシチュエーション次第で、どんな時代にも人は戻れるらしい、と感慨深い。
新たな記憶を保つ力を失っていくと、人は一番自分が自分らしかった時代にとどまって生きるようになるそうだ。私が、今頃になって、突然、「原っぱ」に魅せられてしまったのは、そういうことなのかもしれない。
毎日「原っぱ」でお弁当を食べていると、その場所への愛にも目覚めていく。そんなふうにあまりに想定外にすぎる今年の春をなんとかやり過ごしている。
(ノンフィクション作家)