目に見えないウイルスの恐怖が広がる今、こんな詩の一節を思い出した。「放射能が降っています。静かな夜です」。福島在住の詩人、和合亮一氏が詩集『詩の礫』に書いた一節。放射能もまた見えない恐怖だ。その和合氏が産経新聞に書いていた書評のこんな言葉に導かれて読んだのが『これは水です』である。
「一編の長編詩として読んだ」
米国のポストモダン作家として知られたウォレスが2005年、オハイオ州にあるケニオン・カレッジの卒業式で行ったスピーチの全文で、米タイム誌が全米第1位の卒業式スピーチに選んだ話題本だ。
キーワードは「初期設定」。人は得てして自然に身につけた傲慢で自己中心的な考え方にとらわれてしまう。水に泳ぐ魚がその水を意識しないように、自分の考え方「初期設定」を手直しする適応能力を得ることの難しさを問う。
ここではリベラル・アーツ(人を自由にする学問)も核になる言葉で「ものの考えかた」を学ぶことだと語るウォレス。では、どうすれば初期設定を強化する罠に入り込まずに済むのだろう。実はウォレスは「大文字の『真理』とは死ぬ以前のこの世の生にかかわることです」と言いながら、スピーチの3年後に自殺した。
読後、ユーチューブで肉声スピーチを聞いてみた。誠実な語り口ではあるが棒読みにも聞こえる。もしかしたらこのスピーチは、学生ではなく躁鬱病に悩む著者自身へ発しているようにも感じた。
この本の副題は「思いやりのある生きかたについて大切な機会に少し考えてみたこと」。一編の長編詩にも似たこの難問の答えは各自の心の中にある。「これは水です」。ウォレスは今、赤い幽霊金魚となり、もがき泳ぐ姿をさらけ出しているようだ。
山形県天童市 古間恵一 62
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