家族がいてもいなくても

(658)恩義に報いるファンタジー

 「原っぱ」でなにをするの? と聞かれて、私がとっさに思いついたのが人形劇の野外劇場だった。で、なぜ人形劇? と今さらながら考えてみた。

 思えば、それは半世紀も前にさかのぼる。

 当時、大学を辞め、フリーターをやっていた私は、20代にして人生にへとへと。

 そんなとき、ふと新聞の求人欄の「研究生募集」を見て、ふらふらと行き着いたのが人形劇団だった。研究生の条件は、給料なしで住み込み可、食事がタダ。

 そこにやってきたのは、60年代後半のあの学生運動挫折派の若者ばかり。劇団の先輩が「諸国浪人吹き溜(だ)まり」と呼んだ。 

 いわば、そこは職もお金もない世間にはじき出された若者の救済の場であったのだ。

 当時、その劇団はNHKの人形劇番組「ネコジャラ市の11人」というのをやっていた。台本作家は、後に高名な小説家にして戯曲作家となる井上ひさしさんだった。

 帯番組で人手が急に必要になり、劇団の庭にプレハブを建てて急遽(きゅうきょ)若者を募集していた。

 私たちは、毎日人形劇についての講義を受け、アトリエでさまざまなモノ作りを指導された。

 照明の電気コードやソケット作り、木箱作りや工具の使用法、人形作りなど、さまざまなことを学んだ。食事作りも当番制。これが全員平等。幹部も研究生も男も女もなし。他に類のないコミュニティーを作っていた。

 思えば、そこで私は自立して生きていくためのノウハウを学んだのだと思う。

 しかも人形劇をきっかけに、テレビの子供番組の台本を書く仕事を得て、放送作家や雑誌ライターなどを経てフリーランサーの物書きとして自立していった。

 その間、ずっと人形劇にかかわり、いくつも劇団を立ち上げたり、解散したりして、今に至る。

 世の中には、こういうことにハマりさえしなければ、もう少し地道な堅気の人として生きられたかもしれないのに、というものがある。けれど今になって思う。

 結局は、自分の人生を救済し、支え続けてくれたのはこのファンタジーの世界に他ならない、と。人生の最終章に行き着いた「原っぱ」に、小さな野外劇場くらいは頑張って作らねば、この恩義に報いられない。

 そんなわけで、わがサ高住にシニア人形劇団が誕生。野外人形劇場の初演に向けての作品作りがスタートした。どうなることやらのスリリングな日々が続いている。

(ノンフィクション作家 久田恵)

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