ラーメンとニッポン経済

1947-焼け跡に湯気が立つ、信州発の「中華そば」 (2/2ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

■1947年 荻窪ラーメンムーブメントの胎動

 戦後直後の大衆の胃袋を満たし、ひとときの満足感を提供した「中華そば」。その屋台が軒を連ねたのがヤミ市である。最盛期とされる1946年4月時点で、ヤミ市が密集していた都内179か所には実に2万近い露店が営業していたという。当時の分布図を紐解き、東京のヤミ市をマッピングしていくと、新宿、池袋、渋谷、上野、秋葉原……主要駅には大規模マーケットが集中しているのがわかる。ヤミ市はその後ターミナルから沿線へと派生し、中央線沿線でも吉祥寺などでも自然発生している。その一つ、荻窪駅北口に誕生したヤミ市こそ、2020年代に脈々と続く東京ラーメンのインキュベーターとなったのである。

 1947年、青木勝治をはじめとする5名が荻窪に中華そば店『丸長』を創業。青木らは長野県出身で、戦前は日本橋の日本蕎麦店で働いたキャリアを持つ気鋭の職人たちだ。本格そばを打つスキルはあっても、混乱期だけにそばを打つ道具、そば粉すら入手が困難だ。そこで彼らはヤミ市でサヴァイブすべく、中華そばに着目したのだろう。

 青木らの出身地である長野県は、冷害などで水稲の収穫量が減った際の救荒作物としてそばを栽培しており、これが「信州そば」として定着した経緯がある。戦後の食糧難で米が姿を消した時、彼らは東京の地で新たな救荒フードとしてラーメンを選択したのだ。

 当時の中華そばは豚骨、鶏ガラ、野菜などを弱火でじっくり煮こみ、白濁させず澄んだスープに仕上げたもの。青木らはこのベーススープに日本そばのダシであるカツオ節、サバ節で旨みを加え、パンチがありつつも日本人が好む味に仕上げた。煮干しダシの使用は先行例があったが、カツオ節やサバ節など「節系」の味わいをラーメンに初めて持ち込んだのが、こちら『丸長』である。後年、鶏や豚などの動物系と魚介系をブレンドする「ダブルスープ」がラーメン界に一大革命を起こすが、その礎は荻窪『丸長』にあったのだ。

 ちなみに、『丸長』は長野の「長」からとったもの。その後、創業メンバーの山上信成が信州の「信」からとった『丸信』として店舗を構えた。他の3人も『栄楽』『大勝軒』『栄龍軒』としてそれぞれ独立。彼らのルーツである日本そば店のように暖簾分け、支店を増やして現在まで続いている。

 現在の『丸長』は甘味・辛味・酸味が絶妙に融合した「つけそば」(いわゆるつけ麺)が人気だが、「ラーメン」もしっかりとフラッグシップメニュー。醤油の濃さが映えるスープビジュアルに、しっとり艷やかな自家製麺が泳ぐ。その控えめなルックスには、日本そばをルーツに持ちつつ、焼け跡からタフに立ち上がってきた強者の矜持が感じられる。

 信州日本そば職人の技巧と着想は、ヤミ市というブラックホールを経て、食した誰もがにっこり微笑む味わいへと着地した。大衆の中で生まれ、常に大衆に寄り添う「ラーメン」の良き姿が、そこにある。

佐々木正孝(ささき・まさたか)
佐々木正孝(ささき・まさたか) ラーメンエディター、有限会社キッズファクトリー代表
ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら

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