ラーメンとニッポン経済

1955-「ラーメン」と「つけ麺」 強力な保守合同で“国民食の55年体制”が確立 (3/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

■キャズムを越え、全国にあまねく広がったつけ麺

 時計の針を1955年に戻し、その後の「つけ麺」のブレイクスルーを振り返る。山岸をラーメンの道に誘った坂口は、代々木上原に開いた『大勝軒』でつけ麺を「つけそば」としてメニューに取り入れた。以後、丸長一門は1959年(昭和34年)に「丸長のれん会」を設立。昭和40年代にはつけそばの製法に関する勉強会を開催する。かくして甘み・辛味・酸味をバランス良く織り交ぜたつけ汁に、しなやかな麺を合わせる「丸長スタイル」が確立。看板メニューとして各店が創意工夫を重ね、現在に至っている。

 当の山岸は『中野大勝軒』から独立し、1961年に『東池袋大勝軒』を創業。中華そばと並ぶ二枚看板として特製もりそばを掲げる。丸長グループで研鑽を積んだ自家製麺の腕でもっちりした太麺を繰り出し、盛りはボリューミー。魚介に豚骨、挽き肉でパンチを出した濃厚豚骨魚介のラーメン、つけ麺を若者たちの胃袋に提供し続けた。山岸は2007年に再開発によって閉店するまで店に立ち、「ラーメンの神様」として今も多くの店主、ファンに慕われている。

 山岸は2015年に永眠したが、その遺伝子は全国に広がり、弟子、孫弟子は数百人とも言われ、多くの店が系譜に連なる。直弟子では飯野敏彦が旧店舗からほど近い場所に新『東池袋大勝軒』を復活させ、田代浩二は茨城大勝軒(佐貫)から『麺屋こうじ』グループを旗揚げ。その一門からは業界最高権威『TRY(東京ラーメンオブ・ザ・イヤー)』5連覇を成し遂げた『中華蕎麦 とみ田』、『麺処ほん田』『つけ麺道』などを輩出。山岸の志を継ぐ多くの後進がラーメン界を盛り上げ続けている。

 山岸、そして丸長グループが中心となって推した「つけ麺」も、すっかり一般化。1972~73年には「元祖中華つけ麺大王』が創業し、70年代末からチェーン展開をスタート。全盛期には東京近郊で約80店舗という規模に広がったという。1977年にはハウス食品がインスタント食品の「つけ麺」を発売し、はらたいら出演のCMで「つけ麺」というネーミング、食べ方が一気に浸透していった。

 全国に波及したつけ麺人気は1955年に山岸一雄が起こしたイノベーションによるもの。その基盤にはラーメンに魚介ダシを取り入れた丸長グループが、さらに底流には江戸そば職人の技巧がある。

 政治経済界では、55年体制の立役者になった岸信介らが戦前の満州経営で統制経済を実験し、そのトライアルが戦後の高度経済成長、日本経済のグランドデザインの礎になった。つけ麺がメニューに加わり、強力な保守合同が実現したラーメン界の55年体制も、またしかり。江戸から戦前にかけて和風ダシや麺、トッピングの可能性を追求したそば職人、そしてラーメンにそば技法を取り込んだ中華そば店主。無名のアルチザンたちの見果てぬ夢が、多彩で豊かなラーメン/つけ麺の一皿を実現している。

佐々木正孝(ささき・まさたか)
佐々木正孝(ささき・まさたか) ラーメンエディター、有限会社キッズファクトリー代表
ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら

Recommend

Ranking

アクセスランキング

Biz Plus