そしてこの頃、大量生産を支える大量販売モデルも姿を現しつつあった。チキンラーメン誕生と同じ1958年12月、神戸市三宮に「主婦の店ダイエー」の前身となるチェーン店が開店(同年、東京の北千住には「イトーヨーカ堂」も新装オープンを果たしている)するが、中内功率いるダイエーが客寄せの目玉商品として並べたのはチキンラーメン、そして卵だった。
「低価格・セルフサービス・ワンストップショッピング」をコンセプトとするスーパーマーケットと大量生産食品一期生のチキンラーメンはガッチリ手を組み、流通革命の最強タッグとして台頭。以後も長く大衆消費をリードしていく。
さらに、プロモーションオフィサーとしての安藤百福にも触れよう。チキンラーメンが発売を開始した1958年は、東京タワーが竣工した年でもある。このタワーの正式名称は日本電波塔。そもそもFMラジオ、テレビの電波を送信するために建てられた塔だ。1958年には10.4%程度だった普及率だったテレビ(白黒)だが、7年後の1965年には90%の大台に乗るという大躍進。チキンラーメンは、この同期生が放つメディアパワーも最大限に利用する。
1960年には『イガグリくん』『ビーバーちゃん』のスポンサーとしてテレビCMに初進出。1962年には『日清オリンピックショウ 地上最大のクイズ』を一社提供。出場者が100名、15問全問正解者には賞金100万円というスケールで衆目を集め、1965年まで続く高視聴率番組となった。高卒の初任給がやっと1万円を越えた時代に賞金100万円のインパクトも推して知るべし。チキンヌードルから日清食品へ。企業体の名前を全国区にしたのは、テレビCMに注力したメディア戦略を置いて他にない。
「売るために宣伝するのではない。売れるから宣伝するのだ」
これは「宣伝」に関する安藤の見解だ。無言でヤカンを振り回すアーノルド・シュワルツェネッガー、原始人たちの「hungry?」。チキンラーメンのさらに後、「日清カップヌードル」の名の下、強烈なインパクトを届けた名CMを鮮烈に記憶している方も多いだろう。商品のプッシュにとどまらず、強烈なメッセージでブランドイメージを強固なものにする。確固たる商品力を掲げた横綱ブランディングが、そこにある。
ここまでダイジェストした通り、安藤百福はマスプロダクト体制の構築、サプライチェーンの整備、メディアプロモーションの効果的な運用において、革新的な施策を次々に打ち出していった。運と勘と度胸ではなく、マーケティングとプロダクトマネジメントとプロモーションでビジネス地平を切り拓く。まさにCEOにしてCMO、CPO的な視座、行動力を持っていた「昭和のCxO」だ。
最後に、チキンラーメン開発時の安藤の境遇を補足しておこう。当時の彼は理事長を務めていた信用組合が破綻。取り付け騒ぎの末、財産を没収されて一文無しになっていた。資金も仲間もない中、1958年8月25日、チキンラーメン発売まで雌伏の時をおくった彼は48歳になっていた。平均寿命が64.98歳(1958年・男性)という時代、「まだだ、まだ終わらんよ」と発明・再起業を果たした安藤のスピリットに、私たちは何を学べるだろうか。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら