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横須賀の隠れた軍事遺構・千代ケ崎砲台跡 年内一般公開へ向け整備中

 軍事遺構は全国にいくつもあるが、明治期に造られた砲台跡の残る神奈川県横須賀市の無人島「猿島」は屈指の知名度を誇る。豊かな自然とかつての要塞が織りなす幻想的な光景は映画のワンシーンのようだと評判を呼び、今では市の一大観光拠点だ。市内には他にも貴重な遺構があり、その一つが東京湾を眼下に望む「千代ケ崎砲台跡」。これまで一般市民が目にする機会はほとんどなかったが、市は今年中の一般公開を目指して整備を進めている。(宇都木渉)

 明治期、東京湾の入り口に面した横須賀市では、首都東京の防衛を目的にいくつもの砲台が設置された。このうち横須賀新港の沖合約1・7キロにある猿島砲台跡と浦賀水道に臨む千代ケ崎砲台跡の2つが、平成27年に軍事遺構としては初の国の史跡に指定された。

 平成の世まで現役

 市教育委員会で文化財担当の礒口健太郎さんによると、猿島は要塞として機能していた頃はいわゆる「はげ山」だった。19年以降に市が整備を始めるまでの半世紀余り、人の手が入ることはほとんどなく、その間に現在のようなうっそうとした森が形成されたという。人工物と自然が融合したその光景は、宮崎駿監督のアニメ映画「天空の城ラピュタ」を思わせるとインターネットで人気に火が付き、いまに至っている。

 その猿島から南南東へ直線距離で約7キロ、眼下に東京湾、その向こう側には房総半島を一望する同市西浦賀の丘陵の一角に、千代ケ崎砲台跡はある。

 猿島と異なり、こちらは戦後の一時期、農地として民間に払い下げられた後、海上自衛隊が土地を買い直し、電波送信基地として活用した。電波のデジタル化に伴ってその役目を終える平成20年代まで、現役で使用されていた。

 わずか10年ほどで

 史跡に指定されている1万5千平方メートル余りの土地には、巨大な砲座とそれにつながる弾薬庫、通路、隧道(トンネル)などが残されている。猿島の砲台が明治17年6月の竣工(しゅんこう)なのに対し、千代ケ崎の砲台が完成をみたのは11年後の28年2月5日のことだった。

 ただ、2つの遺構を比較すると、わずか10年ほどで日本に起きていた大きな変化が浮かび上がる。礒口さんによると、猿島の要塞に使われたレンガは、明治維新によって生活に困窮した「旧士族」が製造に従事したものだった。

 その後、明治政府は「囚人」に労働力を求めるよう方針を転換。千代ケ崎では現在の刑務所に当たる「東京集治監」で製造されたレンガが用いられ、積み方も、それまでの「フランス積」から、より丈夫とされた「オランダ積」と呼ばれる方法へと変わった。火砲の性能が急激に向上したため、要塞も防衛力の強化が必須だったからだ。

 当時の面影強く

 また、猿島では天井のアーチ部分にもレンガが使われていたのに対し、千代ケ崎では砲弾に耐えられるよう、分厚いコンクリートが採用された。「自然と溶け合った猿島も魅力的ですが、要塞の雰囲気が強く残っているのは、むしろ千代ケ崎といえるかもしれません」と礒口さんは語る。

 千代ケ崎砲台跡は、これまで年に数回行われる事前申し込みの見学会に参加するしか目にする機会はなく、その全貌を体感することができた人はわずか数百人程度にとどまる。市は経年劣化の確認など、事故防止策を徹底したうえで、令和3年中の一般公開を目指している。

 コロナ後を見据え、軍港都市・横須賀に新たな観光拠点がお目見えする日は近いかもしれない。

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