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スター絵師が仕掛けた“江戸の相撲”ブーム 江戸東京博物館

 57年ぶりの開催となった東京五輪は、新型コロナウイルスの影響で無観客での実施となった。200年以上前、江戸の庶民がこぞって観戦に訪れたのが相撲。江戸東京博物館(東京都墨田区)で開かれている「相撲の錦絵と江戸文化」展では、相撲を一大娯楽に昇華させる役割を担った絵師にスポットライトを当てている。

 相撲特化は16年ぶり

 国技館に隣接しながら、同館で相撲に特化した展示を行うのは16年ぶり。国技館内の相撲博物館や国立劇場が所蔵する資料なども含めた約130点が並ぶ。

 コロナ禍で、五輪会場に客を入れるか入れないかが大論争になったように、スポーツで観衆が果たす役割は大きい。それは江戸時代でも同じ。インターネットどころか、テレビもラジオもない江戸期に、力士の姿や相撲場のにぎわいを臨場感たっぷりに伝える錦絵(多色摺りの木版画)は、興行の熱狂を支えた立役者だった。

 「相撲取組図」(渓斎英泉画)は対戦する力士を、土俵下のほかの力士や、ぎっしり埋まった“3密状態”の観客が見守る構図。

 「庶民の楽しみである相撲の取組の様子を絵師が描く。その錦絵を見た人びとが相撲に行きたくなる。観客が来ることが励みになり、力士の力は入る。その必死の姿を絵師が描き、さらに人気はあがる…という今のスポーツとメディアに似た関係が、当時からあったのでしょう」と説明するのは同館の春木晶子学芸員。スポーツと芸術の相乗効果で、相撲興行の熱狂ぶりは広まったのだ。

 空前の相撲ブームとなった背景には1789(寛政元)年、強豪力士を格付けする「横綱」の称号ができたことがきっかけとされる。初の横綱である谷風梶之助(1750~95年)と、ライバルの小野川喜三郎(1758~1806年)に伝授された瞬間を描いた相撲博物館所蔵の「横綱授与の図」が展示されている。作者は勝川春英(しゅんえい、1762~1819年)。役者の個性を描き分ける似顔絵で評価されていた勝川春章(しゅんしょう、1743~92年)の門人だ。勝川派は、力士ごとに異なる体形や顔の特徴をとらえた相撲錦絵で人気になっていった。春章が1782(天明2)年ごろ描いた2作、「5代目市川団十郎の助六」と「東西土俵入りの図」に共通点があるかどうか、見比べるのも楽しい。

 22歳で浮世絵デビューし、79歳で亡くなるまで1万点を超える作品を制作したとされる歌川国貞(1786~1865年)も「小柳荒馬取組図」など相撲絵に取り組んだ。美人画や役者絵で才能を発揮し、春画やアウトロー(体に彫り物をした侠客ら)にも進出、大胆な構図で見る者を圧倒した国貞は、のちのブロマイドにあたる化粧まわし姿の力士や稽古場の様子を描写するなど、1千点を優に超す相撲絵を残した。

 絵師たちの黄金期

 谷風らが活躍した天明・寛政年間(1781~1801)は、スター絵師の名が飛び交う黄金期でもあった。春章門下だった葛飾北斎(1760~1849年)は北斎漫画で、決まり手を紹介する「相撲四十八手」を描いた。展示はないが、春章の影響を受けた東洲斎写楽(生没年不詳)や喜多川歌麿(1753~1806年)は数え7歳の見せ物力士、大童山文五郎(だいどうざんぶんごろう)の錦絵を残している。山形出身の怪童で、土俵入りのみを行う“戦わない力士”を愛嬌(あいきょう)たっぷりに描いた。

 春木学芸員は「相撲と錦絵、力士と絵師は相互に刺激し合い、支え合いながら人々を魅了した。浮世絵と相撲の双方にとって幸運だった」と見立てる。

 「海外にも相撲に興味をお持ちの方は多い。ぜひご覧いただきたかったのですが…」と話すのは同館の飯塚晴美・事業企画課長。当初、昨年の五輪・パラリンピック期間中に開催する予定だったが、大会の延期に伴い展示も先送りに。1年待ったものの、五輪・パラリンピックが海外からの観戦客を受け入れないことになったため、江戸文化の世界への発信は限定的になった。

 観客の声援がない五輪のテレビ中継、客席が埋まっていない状態で見る相撲やプロ野球中継に慣れてしまったフシもあるが、スポーツなどの娯楽は本来、観客がその場にいてこそのもの-という思いを強くする展示だ。

 9月5日まで(8月10、23日は休館)。午前9時30分~午後5時30分。入館料は一般650円、大学・専門学校生480円、高校生と65歳以上・東京都外の中学生300円、都内の中学生と小学生以下は無料。

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