渡邊大門の日本中世史ミステリー

黒田官兵衛孝高は、経歴詐称の天才だった?知られざる黒田家の家系の謎 (2/2ページ)

渡邊大門
渡邊大門

 実は、結論を言うと、この系図も疑問だらけなのである。そもそも円光から重隆に至る黒田家歴代は、一次史料に一切あらわれない。巧みに作られているものの、おそらく架空あるいは想像上の人物であると考えられる。

 一番問題なのは、官兵衛が重隆の実子になっており、のちに小寺職隆の猶子(相続を前提としない親子関係)になったという点である。官兵衛は職隆の実子であり、猶子ではない。なぜ、このような誤りを犯してしまったのだろうか。

 もともと職隆も官兵衛も「黒田」を姓としていた。しかし、播磨御着城(兵庫県姫路市)主の小寺氏に仕えてから、「小寺」姓を与えられた。以降、職隆も官兵衛も主家の小寺氏が天正8年(1580)に放逐されるまで、「小寺」姓を使っていた。

 『荘厳寺本 黒田家略系図』の編纂者は、その事実を知らなかったので、なぜ「黒田」官兵衛の父である職隆が「小寺」姓を名乗っていたのか疑問に思った。そこで、官兵衛を「黒田」姓の重隆の子とし、「小寺」姓の職隆の猶子にすることで整合性を取ろうしたのだろう。

 実は、似たような説を採用するのが『播磨鑑』である。『播磨鑑』は、平野庸脩の手になる地誌で、宝暦12年(1762)に成立した。

 『播磨鑑』には黒田家の先祖について、「(官兵衛の)先祖は、宇多源氏の後胤で黒田判官備前守高満の子孫・下野守重隆である。理由があって、重隆は播磨国多可郡黒田村に住した。重隆の嫡子・官兵衛は、姫路城主である美濃守職隆の猶子となって、姫路城を守った」という記述がある。

 『荘厳寺本 黒田家略系図』も『播磨鑑』も、官兵衛が過去に小寺姓を名乗っていたことを疑問に思い、小寺職隆の猶子にするという誤りを犯しているのだ。

 結論を言えば、次のようになろう。

(1)黒田氏の先祖が近江佐々木氏であるという確証はない。

(2)黒田氏の家系は、官兵衛の祖父・重隆以降しかわからない。

(3)官兵衛は重隆の子ではなく、職隆の子である。

 したがって、『黒田家譜』だけでなく、『寛政重修諸家譜』、『荘厳寺本 黒田家略系図』、『播磨鑑』に載せる黒田家の系譜(重隆の父以前)は、まったく当てにならないといえよう。では、なぜこのようなことになったのか。

 黒田家の系図が作成された17世紀以降、すでに重隆も職隆も無くなっており、重隆の父以前の記録はわからなかった。しかし、幕府に系図を提出せねばならず、大いに悩んだ。そこで、今の長浜市の「黒田」という地名に着目した。

 幸いにして、佐々木黒田氏は15世紀には家系が途絶えており、好都合だった。そこで、黒田家では名門の佐々木黒田氏を先祖とし、むりやり系図を作り上げたのだろう。こうして完成したのが、『黒田家譜』と『寛政重修諸家譜』だった。

 一方、播磨では赤松氏が名門だったので、今の西脇市の「黒田」という地名に着目し、むりやり系図を作り上げたと考えられる。表題の経歴詐称というのは、ちょっと言い過ぎだったかもしれない。

 このように、近世に生き残った大名でも先祖がよくわからず、系譜が怪しいことも珍しくない。したがって、名門の家柄を出自とする大名には注意が必要なのである。

歴史学者。昭和42年、神奈川県生まれ。関西学院大文学部卒、仏教大大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、株式会社「歴史と文化の研究所」の代表取締役を務める。主な著書に『進化する戦国史』(洋泉社)『真田幸村と真田丸の真実』(光文社新書)など多数。近著に『井伊直虎と戦国の女傑たち』(光文社)。株式会社「歴史と文化の研究所」のHPはこちら

【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら

Recommend

Ranking

アクセスランキング

Biz Plus