5.龍造寺隆信(1529~84)
龍造寺隆信は、キリシタンを磔にして惨殺した。隆信の三男・後藤家信がキリスト教に入信しようとすると、猛烈に反対し翻意させたという。フロイスが隆信を嫌った理由の一つである。
「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との言葉は、フロイスが隆信を蛇蝎のごとく嫌っていた証左となろう。しかし、フロイスによると、隆信は6人担ぎの駕籠が必要なほどの巨漢であったが、迅速な決断力があったと評価する。
天正12年(1584)の沖田畷の戦いで、イエズス会はキリシタンの有馬晴信を支援したが、敵対する隆信の軍備については、カエサル(古代ローマ期の政治家、軍人)でも成しえないほどだったと賛辞を贈った。
とはいえ、九州の諸大名のなかで、龍造寺氏はキリスト教の布教に消極的だった。ゆえに、フロイスは隆信を嫌ったのである。
番外編:朝山日乗(?~1577)
朝山日乗は天台宗の僧侶であり、キリスト教に強い嫌悪感を抱いていた。永禄12年(1569)、日乗は朝廷に申請し、宣教師を京都から追放する旨の綸旨を得た。日乗は綸旨を携え、将軍・足利義昭のもとを訪れ、宣教師の追放を求めたのである。
しかし、義昭は宣教師の扱いについては、天皇ではなく将軍に権限があるとして拒否した。次に、日乗は岐阜の織田信長のもとを訪れ、同じことを求めたが、信長は宣教師の保護を進めたのである。
その際、日乗は信長を訪ねたフロイスらに相論を挑んだが、途中で日乗は怒りだして刀を抜いたので、そのまま取り押さえられたという。
本懐を遂げられなかった日乗は朝廷と結託し、何とか宣教師を追放すよう画策する。こうした動きを見たフロイスは、日乗をキリスト教布教の敵とみなし、徹底して罵倒し続けるのである。
なお、フロイスの『日本史』には、日乗があまりに貧乏なので離婚したこと、その後は侍となり殺人を犯したことなどを書いている。それは、日乗を貶めるためのものだったのかもしれない
このように、フロイスの人物評はキリスト教の信仰や理解を軸にして、なされたのは明らかである。
まとめ
実は、日本側の一次史料(当時の古文書や日記など)には、大名の性格や人物像が詳しく書かれることは稀である。ましてや、後世に成った二次史料(系図、軍記物語など)の記述は、脚色されている可能性が高く信が置けない。
そこで、フロイスの『日本史』が重宝されるわけであるが、人物評価の基準は先述のとおり、あくまでキリスト教に対する信仰や理解である。したがって、諸大名に対する評価は、必ずしも正しいとは言えないのである。
【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら