文革初期の指導者、戚本禹の死 元滋賀県立大学教授・荒井利明
専欄中国の文化大革命(文革)初期に活躍し、文革の綱領的文書の起草にも携わった戚本禹が先月、84歳で亡くなった。毛沢東の指導下で文革を推進した「中央文革小組」のメンバーはこれでみな亡くなったことになる。
戚本禹は1963年に発表した、太平天国の指導者を論じた文章が毛沢東に評価され、66年に設立された中央文革小組の一員に抜擢(ばってき)されて、一躍、権力中枢入りした。このとき35歳、メンバー中、最も若かった。
だが、中央指導者としての地位を長くは保持できなかった。67年夏、軍内の「資本主義の道を歩む実権派(走資派)」の打倒を主張し、軍に混乱をもたらし、軍幹部の反発を招いた。
文革を推進するため、軍の安定と軍幹部の支持を必要としていた毛沢東は、戚本禹らを「スケープゴート」として失脚させた。68年初めに拘束され、監獄へ送られた。
文革後、再び実権を握ったトウ小平らによって裁判にかけられ、83年に「反革命宣伝扇動罪」で懲役18年に処せられた。戚本禹の文革初期の言動は毛沢東の意向に沿ったものだが、トウ小平は毛沢東に反革命のレッテルを貼るわけにはいかず、戚本禹はここでも「スケープゴート」にされたのである。
戚本禹は文革中の拘束から18年経った86年に釈放され、80歳になった2011年に回想録を書き始めた。今年初め、末期がんが見つかり、60万字に及ぶ回想録を急いで完成させた。
回想録が香港で出版されたのは、死から数日後の先月末。戚本禹は回想録が印刷されていることを聞かされて息を引き取ったという。
回想録の一部とされる「江青同志を回想する」という文章は、ネット上などで公開されている。戚本禹はその中で、江青は人々からいかに悪く言われようとも、夫である毛沢東の顔に泥を塗るようなことは一切しておらず、「彼女は間違いなく女性の英雄であり、毛主席が彼女を選んだのは間違ってはいなかった」と述べている。
この文章を読む限り、戚本禹は亡くなるまで、毛沢東と江青に対する尊敬の気持ちを持ち続けたといえよう。毛沢東と江青によって翻弄された人生であったにもかかわらずである。
文革研究者の丁凱文は、戚本禹には歴史と自己に対する反省が欠如しているのではないかと批判している。戚本禹は頑(かたく)なに文革への信念を保持し続けたのである。(敬称略)
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