幕末期に山田方谷が描いた成長戦略 領民の生活向上を目指した改革

視点

 □産経新聞論説委員・井伊重之

 雲の中に浮かぶ「天空の城」として最近、テレビや新聞でも取り上げられる機会が増えた備中松山城は、岡山県高梁市に位置する。日本三大山城にも数えられ、その力強い天守や石垣の姿は、現在放映中のNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングシーンにも登場する。

 この城を舞台に約160年前の幕末期、備中松山藩で先進的な改革を率いたのが山田方谷(ほうこく)だ。農民出身ながら財政を取り仕切る重役に抜擢(ばってき)された方谷は、10万両に上った藩の借金をわずか7年で返済し、新たに10万両を蓄財するスピード再建に成功した。

 江戸期に質素倹約や殖産興業などの藩政改革で窮乏財政を再建させた例は多い。だが、藩の財政が好転しても、領民の暮らしが改善しなければ本末転倒だ。方谷は藩士や領民を豊かにし、生活の底上げを通じて藩を富ませる「士民撫育(しみんぶいく)」を改革の基本方針とした。これは現代の成長戦略につながる改革の理想像だ。

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 方谷改革の真骨頂は、旧弊の打破にある。まず大坂蔵屋敷の廃止に踏み切った。当時の大坂は米売買の中心地で、諸藩は年貢米を貯蔵する蔵屋敷を大坂に構えていた。実際の売買は蔵元と呼ばれる商人に委託していたが、方谷はこの蔵屋敷を売り払って米を藩内に貯蔵し、自ら相場をみながら、なるべく有利な時に売却した。

 菜種油をつくる貧しい農家で育った方谷だけに、商品相場の重要性に早くから気づいていたのだろう。そして全国の米相場は、方谷が京都や江戸で陽明学を学んだ際の学友らから独自に取り寄せていた。

 この「直売方式」は、他の特産品にも生かされた。藩内で産出された砂鉄を活用し、3本歯で使いやすい鍬(くわ)を開発・生産したが、これを大消費地の江戸に運び込んだ。大火が多かった江戸には鉄釘の需要が多く、これも売り出した。同藩の江戸屋敷などには、こうした特産品を保管する専用の蔵も設けていた。

 これだけではない。商品価値を高めるため、ブランド化も進めた。たばこや柚餅子など藩の特産品には「備中」という名前を冠し、他藩の商品との差別化を図った。とくに「備中鍬」はベストセラーとなり、藩の財政を大いに潤した。

 さらに特産品の生産・販売を一手に引き受ける「撫育方」という専門部門を設置した。方谷は稼いだ資金で船を買い入れ、物流事業まで手がけている。山間に位置する小藩の改革を託された方谷の目線はあくまで高かった。

 こうして短期間で財政を再建した備中松山藩は幕府から評価され、藩主の板倉勝静(かつきよ)は老中に抜擢された。徳川家茂や最後の将軍、慶喜に仕えた勝静の政治顧問となった方谷は、大政奉還上奏書の草案も起案したとされる。

 最後まで藩と幕府を支えた方谷は、明治政府から要職で迎えたいとの申し出を固辞し、地元で教育者として生涯を終えた。明治の表舞台に登場しなかった方谷の功績は、激動の歴史の中に埋もれた。

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 方谷から数えて6代目の直系子孫で、現役の財務省キャリアである野島透さん(55)は「方谷は斬新な改革に取り組んだが、『至誠惻怛(そくだつ)』という真心と慈しむ精神を何より重んじた。これは現代の改革でも共有すべき基本理念といえる」と指摘する。

 最近になって方谷を再評価する声も上がり始めた。全日空の社長、会長を務めた大橋洋治相談役(76)もその一人だ。大橋さんは社長時代、米中枢同時テロの発生などで業績が悪化し、希望退職などのリストラに取り組まざるを得なかった。

 社員説明会には「至誠惻怛」の精神で臨み、会社の現状を説明して理解を求めた。「誠を尽くして人に接すれば、道は通じることを学んだ」と大橋さんは振り返る。

 こうした方谷の功績を多くの人に知ってもらいたいとして、NHKの大河ドラマ化を目指す100万人の署名活動も進められている。現在まで77万人の署名を集めたという。方谷は改革者だけでなく、教育者などの顔も併せ持つ。その奥深い足跡を今後も探っていきたいと考えている。