高橋昭雄東大教授の農村見聞録(39)
飛び立つミャンマー■シャン州のディアスポラと「新しい村」
ミャンマーの北東部に位置するシャン州は、文字どおり、タイ民族に属するシャンの人々が多数を占める。ミャンマーの総人口の7割を占めるビルマ(ミャンマー)民族も、ここでは少数にすぎず、シャンの他に、パラウン、パオ、カチン、ダヌ、インダー、ワ、コーカンなど、多くの民族が居住している。今回は、その中でも特に「少数」のリス民族の話である。
◆リスの「難民」
シャン州北部では今も国軍とパラウンやコーカン民族軍との戦闘が続いており、この地域で農村の調査をすることはすこぶる困難であるが、2016年夏、治安が比較的安定しているラーショー郡の農村を6カ村ほど調査する機会があった。その中で最も豊かに見えたのが、ラーショー市にほど近いカシ村であった。「カシ」とはリス語で「新しい村」という意味である。同村に住むフラースィーという長老が、その「新しい」歴史を語ってくれた。
長老たちはもともとコーカン自治区コンジャン郡のシンタン村落区に住んでいた。中国との国境までほんの数キロしかない山中の村である。1960年代半ば、この地域に中国共産党の支配が及んできた。敬虔(けいけん)なキリスト教徒であるリス民族の人々は、信仰を抑圧する共産党の支配を嫌って、68年、近隣の村落区に住むリスの人々と図ってこの地を脱出することにした。
200世帯余を糾合した大集団は、道なき道を南下してコーカンを出て、ミャンマー国軍がかろうじて掌握していたコンロンに達した。ここからは兵士を運ぶ軍用車両に乗せてもらい、ラーショーに到着した。ミャンマー政府はこの町よりもさらにマンダレー方面に向かったティーボーから北に向かう山間部の土地を提供することを約束したが、場所も地味もよくなかったので、リスの人々はこれを断った。
そこで助力を仰いだのが、88年から2011年まで続いた軍政期に商業相、財務相、国家計画・経済開発相などを務めたエーベル氏であった。1968年当時、彼は国軍の第41大隊の司令官としてラーショーにいた。同じキリスト教徒のよしみで、伝手(つて)をたどってエーベル氏を頼ったのだという。彼はリスの「難民」たちにラーショーにほど近い森林地帯を斡旋(あっせん)した。リスの人々は豊富な森林資源を伐採して国内や中国で売ると同時に、森や荒れ地の開発を進めた。耕地を作り出し、家を建て、道を引いて、自分たちの村をここに築いていった。
シャン州の内戦は80年代になっても継続し、カシ村の人々はこの地に定住することになる。難民がディアスポラ(移住者)になったのである。
90年代になると内戦が沈静化し、中国との国境貿易が盛んになって、カシ村の経済は急速に発展した。その来歴から、彼らは中国語に堪能であり、中国に森林資源を売るだけでなく、交易に参入する者や中国に出稼ぎに行く者が増加していった。90年代には、森林を耕地化して作付けしたトウモロコシが中国に輸出されるようになり、さらにこれがF1ハイブリッド種(第一交配種)に変わると、収穫量と輸出量が急拡大して、その利益は村に広く行きわたった。
2008年にはリス語でキリスト経典を教える寄宿学校が村内に作られ、ミャンマー国中からリス民族の若者が集まってくる。難民の村が、ミャンマー中のリス民族の語学および宗教教育の中心となったのである。
◆土地問題が沸騰
ところが、最近になってこの村にいくつかの問題が生じている。その一つが、11年の「民主化」以降、ミャンマー全土で沸騰している土地問題である。特にシャン州はその最前線となっている。カシ村もご多分に漏れず、1994~95年に村人たちが汗水流して開拓したトウモロコシ農地300エーカー(1エーカーは約0.4ヘクタール)が国軍に接収されてゴム園になり、95~96年には同150エーカーが民間のセメント会社に払い下げられた。国有地ということで、村人には何の補償もなかった。
ミャンマーでは国有地でも耕作権が認められているが、この村では前述の経緯もあって、その権利を証明する文書が存在しない。また、リスの人々が権利を主張すれば、その前に森を使っていた人々が声を上げることになるかもしれない。シャンの「新しい村」はどこでもこうしたリスクを孕(はら)んでいる。
二つ目は、2010年代に再び激化してきた内戦の影響である。この村には戦乱に巻き込まれたリス民族の77世帯が避難してきた。だが、もう村には彼らを受け入れる土地はない。彼らはディアスポラとして村に定着することは不可能であり、難民のまま故地への帰還を待ち続けるしかない。
シャン州の内戦に村人たちは「新しい村」の建設によって対処してきたが、今はそれもかなわず、戦乱の地の人々は難民として漂流せざるを得ないのである。(随時掲載)
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