高橋昭雄東大教授の農村見聞録(42)
飛び立つミャンマー■コーカン内戦に巻き込まれて(下)
私の頭上を弾が飛び交う銃撃戦があり、農業局の建物にいると危険だということで、2015年2月12日、ミャンマー国軍基地内のゲストハウスに収容されることになった。だが、今度はお湯が出る浴室のある個室ではなく、窓ガラスが割れた部屋で吉田実さんと相部屋になった。作戦司令として大佐が赴任し、ヤンゴンから精鋭部隊を率いた中佐がやってきて、それぞれ個室に入ったからである。
◆兵士と日光浴
その日の午後、ベッドに座っていると、若い大尉が来て「横になって寝ていろ」と言われた。私の頭のちょうど後ろにあるガラスに空いた穴は銃弾の痕(あと)らしい。ここの方が危険じゃないか、と少し腹が立った。だが、翌朝、ゲストハウスの下で銃撃戦が始まると、やはりベッドに伏せることにした。
ベニヤ壁1枚を隔てた隣の部屋からは四六時中ブーピーと騒音が聞こえてきて、夜も眠れなかった。無線を傍受する機器が置かれていたからである。そこの責任者は、60歳近いワ人の准尉で、ミャンマー語のほか、パラウン語、中国語、ワ語に堪能だった。「ワ」は反政府武装勢力の中で最大の戦力を誇る民族で、コーカンの南に自治区を構える。無線で入ってくる諸言語の軍事情報をミャンマー語に翻訳するのが彼の役目だった。
睡眠を妨害されるだけでは忌々しいので、私はこの准尉から情報を聞き出すことにした。彼の妻が、私が以前調査したことのあるナムサン郡(15年3月20日付「農村見聞録(24)」参照)の村の人だったことが、親しくなるきっかけになった。
ある日、「今、中国側の道路をワ軍の装甲車7台がコーカン軍の加勢に向かっている」と、彼が私に話しかけてきた。これには少し驚いた。中国もワも、この内戦には一切関与していないと公式には発表していたからである。ちなみに、上官から兵士に至るすべての軍人がコーカン人を「タヨウッ(中国人)」と呼んでいた。「中国人ども(タヨウッ・ドェー)をやっつけろ」という雄たけびを中国本土の人々が聞いたらどう思うだろうか。
またある日、「コーカン軍が前に池がある大きな木の下に集結する」との無線を傍受した。ところが、この村がどこにあるのか誰にもわからず、コーカンの地理に詳しい吉田さんに尋ねていた。これではミャンマー国軍はなかなか勝てそうにないな、と思ったものだ。
他にもそのように思ったことがしばしばあった。ある夜、騒音が全くしないので熟睡できた。准尉に聞いてみると、「停電だったから無線傍受をしなかった」と言う。停電の時には停戦もするのだろうか。
また静かな夜に突然、「タ、タ、タ、タ」という大声と空砲で目覚めさせられることもあった。これは、「起きろ、起きろ、起きろ、起きろ」というミャンマー語で、兵士を眠らせないための手段だという。そのせいか、私もそして兵士たちも昼間は眠そうな目で日向(ひなた)ぼっこをした。凍えるように寒い夜を熟睡もできずに過ごした後の日光浴は最高だった。
◆先頭には士官
ところがある日、上層部から日向ぼっこ禁止令が出た。私は無視したが、兵士たちも半日ほどしかこれを守らず、またぞろ私の隣に並びだした。水浴禁止令も出たが、上官が水浴しているので、これも守られなかった。戦場では命がけで戦っているのだから、せめて基地内ではゆっくりさせろ、というのが兵士たちの考え方だった。兵士たちは「大尉や中尉といった尉官はたくさんいるのでどうなってもかまわないが自分たちは死ねない」とよく言っていた。
ミャンマー国軍は志願制なので、兵士は不足気味であり、特にゲリラ戦に強いベテランは少ない。一方、軍政期に国防大学(National Defense Academy)は急拡大し、大量の士官候補生を輩出した。末は大臣にもなれるエリートコースであるが、その前に前線で士官と兵士のバランスが悪い部隊を率いて先頭に立って戦わなければならない。コンジャン基地トップの中佐は開戦直後に負傷した。
23日、私が乗った救助ヘリコプターの中は、血だらけの軍人たちで埋め尽くされていた。その中には、尉官の襟章を付けた若者が確かに多く含まれていた。将官までたどり着く者は、文字通り「生き残り」なのである。命を懸けて国のために戦ってきた者が国を支配して何が悪い、というのが彼らの本音なのかもしれない。
それにしても、なぜ、2月9日にこの内戦は始まったのであろうか。世帯の所得源をしつこく追及する私の質問攻めから辛くも逃れた、あの大金持ちの若者はいま何をしているのだろうか。もう少しでコーカン経済の見えざる部分に手が触れられるところまで来たのに、誠に残念でならない。
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