高橋昭雄東大教授の農村見聞録(43)
飛び立つミャンマー■チン州の焼畑農民、マレーシアへ
ラカイン州北部からのロヒンギャ難民の大量流出で、東南アジア諸国連合(ASEAN)の中でもムスリム(イスラム教徒)が特に多いインドネシアおよびマレーシアとミャンマーとの関係がぎくしゃくしている。マレーシアのナジブ・ラザク首相は、ロヒンギャ迫害に対する抗議集会に参加するなど、ミャンマー政府に対する批判を強め、2016年12月6日からミャンマー政府はマレーシアへの労働者派遣を停止している。
最近でこそミャンマーからマレーシアへのロヒンギャ難民の大量流入が注目を集めているが、14年末の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、13万9000人のミャンマー難民のうち、チン人(民族)が5万620人と、ロヒンギャの4万70人を上回っていた。また同年に実施されたミャンマーのセンサスによると、チン州の人口は48万ほどで、総人口5000万の0.9%にすぎないのに対し、マレーシアに居住するミャンマー出身者30万人中、チン州出身者は2万7000人と9%もいる。先の難民数と合計すると、14年時点でマレーシアにいるミャンマー出身者44万人中7万7000人(18%)がチン人だということになる。
こうした人口流出は今に始まったことではなく、軍政期の1995年頃から続いている。今回は大量の人口を押し出すチン州の生業構造をみていこう。
◆ばらばらの部族
チン州はミャンマーの北西部に位置し、険しい山岳地帯がその大部分を占める。チン民族は31の語族に大別されるが、谷を一つ隔てれば言葉が通じないこともあるという。こうしたばらばらの山地部族が、独立後の行政区画や自治をめぐる内戦の中で、徐々にチン人(民族)となっていったと考えられている。
そのような多種多様の中で共通しているのは、彼らが古来、狩猟採集民族だということである。そしていつのころからか移動しつつ耕作を行う焼畑が生業に加わり、定住化している今でも、チン丘陵では焼畑が広く行われている。たとえば、私が2004年から05年にかけて実態調査した、チン州の州都ハカ町周辺の農地の8割は焼畑だった。
焼畑を行うには、まず木を伐採し雑草を取り除かなければならない。この作業は収穫が終わった9月末から12月末まで行われ、2、3カ月ほど木や草を乾燥させた後、乾期末の3月中旬から4月上旬に火入れを行い、これらを焼き払って灰にする。その後、雨期の到来を見極めながら、4月下旬から5月下旬にかけて種まきを行う。火入れの1日以外に村の共同作業は一切ない。
種がまかれるのは、メイズ(トウモロコシ)、アワ、ゴマ、キマメやダイズなどの豆類である。中でもメイズは最重要作目で、チン人の主食である。この主食は固いフリントコーンを塩味でゆでるだけのもので、食べてみたがまずかった。
チン州はミャンマーの平野部からの交通の便が悪く、コメを移送すると高価になってしまう。そこで1950年代からチンの人々は棚田を作り始めた。コメの方が美味で、調理に時間や薪代がメイズほどかからないからである。山の中腹を走る幹線道路の下には、焼畑に交じって棚田が今でも次々に開発されている。だが棚田造りにはそれ相応のコストがかかるので、金銭的に余裕のある者しか棚田を造成することができない。コメは所得が上がると需要が減少する下級財だといわれるが、ここチン州では明らかに上級財である。
◆外国へ出稼ぎ
ここまでは基本的に自給自足の話である。他の医療、教育、耐久消費財などの必需を満たすため、人々は山の動植物を換金していた。だが、人口増や利権を伴う諸規制によってそれらが手に入りにくくなると、人々は出稼ぎに出るようになった。最も近い出稼ぎ先は、チン州から徒歩で行くことができ、言語も共通するインドのミゾラム州である。社会主義期の1960年代後半から盛んになったという。
いきなり外国に行ったのは、国内に就業機会がなかったからである。ミゾラムでの仕事は農業労働や道路工事であり、それなりの現金収入はあったが、手配師や雇用主にだまされて一文無しで帰ってくることも多かったという。
そこにミゾラムの10倍は稼げるマレーシアでの工場労働の道が90年代に開かれた。チンの若者は親族や近隣から莫大(ばくだい)な借金をして続々とかの地に渡った。査証(ビザ)を持たない者たちは、強制送還されないように「難民」になった。何年かたって帰国すると、棚田を作り、家畜を飼い、オートバイや不動産を購入して、村の富裕層にのし上がることができた。こうした道筋が彼らとは無関係なところで突然遮断されてしまった今、チンの若者たちは何処へと漂流していくのだろうか。(随時掲載)
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