高橋昭雄東大教授の農村見聞録(44)

飛び立つミャンマー
焼畑のために草木を伐採する農民。人手が足りないときは労働者を雇うかフローブンという交換労働を行うが、火入れの1日を除き、村を挙げてのいわゆる共同作業は一切ない=2004年12月、ミャンマー・チン州ハカ郡ゾークワ村(筆者撮影)

 ■チン州からの土地所有史論再考

 土地所有史の一般理論によると、人類社会の最初の社会経済構成体は氏族であり、生産手段としての土地は私的に所有されず、未発達な共同的生産に照応して共同体的に所有されていた。これが原始共産制である。

 やがて生産力の発展に伴い、共有地から私有地に転換される部分が徐々に増加し、歴史は奴隷制さらには封建制へと進む。そして最終的には共同体的土地所有は完全に解体して、自由な私的土地所有に基づく資本主義に至る。

 土地所有史は完全なる共有に始まり、私有がこれを次第に侵食し、終には完全なる私有に行きつく、というわけである。だが歴史は本当にそのように進んだのだろうか。

 ◆相続権の優先順位

 2004年から2年間にわたり筆者が調査した、インドの国境に近いチン州では、今も多くの村々で焼畑が行われている。

 ST村では2年耕作して18年休閑する。村の草分けにつながる家系だけが最初に耕地を選ぶ権利がある。もともとは男子すべてがその権利を相続できたが、今では長男のみが相続している。その他の家系に属する世帯はその余りを分けられて焼畑を行う。

 ZK村では3年耕作して10年休閑する。1970年ころに比べると休閑期間が半減した。そのころまでは世帯ごとに焼畑の範囲が決まっていて、そこを移動していたが、人口増とともに移動可能地が減少し、村の共有地として各戸の耕作地はくじ引きで決めることになった。

 LL村でも30年ほど前に焼畑が村の共有地となったが、くじ引きは行わない。個人が適地を見つけ出して村長に申請し、申請地が重なったときはより貧困な世帯や棚田を保有しない者に優先的に配分される。

 HL村では、30年くらい前は休閑期間が20年であったというが、今は4年耕作10年休閑である。村には生産性の高いチュアローと低いサテックという2種類の焼畑がある。前者は村の草分けの家系にある世帯のみが耕作し、後者は村の共有地で貧困順に配分する。チュアローは世帯内の男子全員が相続してきたが、今は相続できる焼畑が少ないので長男のみの相続となった。

 KJ村でも、古くは個人が適地を見つけて焼畑をしてきたが、やがて共有地化して、3年耕作10年休閑の焼畑に移行した。それでも耕作者の増加に伴い、休閑地の面積が次第に減少し、終にはゼロとなって移動ができなくなり、2004年が最後の焼畑となった。

 ◆私有制から共有制へ

 ここでまず注目されることは、人口圧すなわち土地の希少化に伴う、各村の相続制度の変化である。

 人口希薄で焼畑適地が人口に対して無限とも言えるような時代には、各世帯が勝手に山を焼いて焼畑をしていた。その後、焼畑の希少化に伴い相続制度が変化した。土地が豊富にあれば男女を問わず子供全員に土地を相続させることができたが、やがては男子のみ、そして最後には長男のみとなる。

 チン人の相続制度については、男子だけに相続権があるとか、長子相続であるとか言われてきたが、土地人口比率によって変化してきたものと思われる。

 同時に土地所有制度も変化してきた。元来は最初に焼畑を開いた者がそれを私的に占有した。だんだんと自由に開ける土地がなくなってくると、相続と連動して所有の私的概念も強くなってくる。さらに人口圧が高まると、休閑期間が短くなって、土地の肥沃(ひよく)度も落ちてくる。終には世帯内の相続で対処できなくなり、いわば窮余の一策として村による焼畑の管理すなわち共有制が登場してくる。それは有力者優先の土地配分だったり、くじ引きだったり、貧困者優先だったり、村によっていろいろな形態をとる。つまり「常識」とは逆に、私有制が先にあってその後に共有制が登場している。

 土地所有史論は、共同体の管理する土地が時代を下るごとに狭まって、近代になると私有化されて完全になくなるという筋立てになっているが、チン丘陵では村による共有制は私有制度が行き詰まった後に登場してくるのである。また、こうした制度変化の導引が生産力にあるのではなく、土地に対する人口圧や農業の商業化にあるのも興味深い。

 農村調査をしていると、われわれが学んできた理論と違う現実にふと出会うことがあり、それがまた思索の刺激となる。原始共産制を理想とし、資本主義の後に、社会主義→共産主義を想定する思想にも疑念がわいてくる。(随時掲載)