高橋昭雄東大教授の農村見聞録(47)

飛び立つミャンマー
ミャンマーに遍在する塊村(住家が不規則な形にかたまった集落)。これを見ると「共同体」を想起しがちだが、内実はそうではない=2013年8月、マンダレー管区域チャウセー郡(筆者撮影)

 ■日本人は「共同体」を見たがる

 日本人はどうも「村落共同体」(以下、「共同体」)が好きらしい。稲作をしていれば「共同体」、村が生け垣に囲まれていれば「共同体」、といった具合である。最近でも、ミャンマーの村の仏教が「共同体」の宗教であるとか、ミャンマーの古代遺跡が「共同体」であるとか、まったく根拠のない議論が横行している。しかし、ミャンマーの村落は、日本人が見たがる癖がある「共同体」ではない。その論拠を示していくことにしよう。

 ◆村切りと村請

 そもそも「共同体」なるものは、「コミュニティ」とは異なり、歴史貫通的に存在するものではない。超歴史的な共同関係ではなく、一定の歴史的な規定性を持った社会関係である。日本においては、「共同体」としての村(近代の行政村ではなく、旧村、大字、あるいは部落)は近世封建体制下の封建権力による支配に対する対抗と従属の中で形成され、小農維持の組織として、今日に至るまで存続してきた。

 検地による村切りで、村人と居住地と耕地が一体となった村領域が確定し、同時に年貢村請制が導入され、納税は個人ではなく村の共同責任となった。これに伴い、用水管理の単位も個人や個別経営ではなく村となった。また、農業生産や日常生活に必要な薪炭、用材、肥料用の落ち葉、家畜の餌、屋根を葺(ふ)くカヤなどを採集する山野も、村を共有(総有)の単位とする入会地となった。

 第二次大戦中から行われてきた米穀の供出および1970年代からの減反政策に伴う供出量の割当や減反面積の戸別調整は村(旧村、部落)単位で行われた。現在、農地や用水の管理は土地改良区が担っており、個人は「家」→「村」→「土地改良区」という重層的集団に帰属する。村の総有林はまだいろいろなところにある。村切りや村請の残滓(ざんし)は後々まで残ったといえる。

 一方、ミャンマーの場合、日本の検地にあたる植民地期の地租査定調査では、村とは無関係なクィン(単位耕作地)が基礎となり、耕地を含む村領域という観念は生成しなかった。よって村は地税徴収の単位とはならなかった。社会主義期(1962~88年)に村請的な制度の導入が試みられたものの、ことごとく失敗し、籾(もみ)米による現物納税(日本の年貢と同じ)は個人の責任に帰された。用水管理に関しても、利害関係者のみが行うことになっており、村に複数の用水路があって、複数の村の農民がこれに関わり、灌漑(かんがい)局の命令と指導に従うことになっているので、村が管理の主体となることはない。またユワミェー(村有地)を持つ村も多少あるが、その管理は少数者に委ねられ、村人がそこからの利益を平等に享受できるわけではない。

 村切りと村請があったこと、水利の基本単位であること、村の共有地があること、およびそれらに伴うさまざまな共同労働があることによって、日本の村は強い凝集性を保つ「共同体」となった。これに対し、ミャンマーの村はそのような歴史的契機を欠いていたのである。

 ◆仏教と精霊

 さらに、日本の村には「村の精神」がある、と社会学者の鈴木栄太郎(1894~1966年)はいう。個人などの意志や関係が村を作るのではなく、村の精神が個人などの意志や関係を鋳出するのである、と述べる。そしてこの村の精神を表象し、村そのものを守護するのが領域神である氏神であり、それを祭る神社である。これに対し、寺は地域や地縁に無関心である。氏子は「共同体」が集団として神社を崇拝し維持するのであるが、檀家(だんか)は各個人が寺院に繋(つな)がることによって相互に繋がるにすぎない。日本において、氏神信仰は「共同体」の宗教であるが、仏教はそうではない。

 ミャンマーの村にも寺にあたる僧院があるが、一つの村に一つだけとは限らない。村の仏教徒は自分の好きな僧院に通い、それは村の内外を問わない。同一世帯内で、親と子が違う僧院に通う事例もある。キリスト教徒の村でも同様である。また領域神であるユワー・サウン・ナッ(村を守る精霊)は、主に高齢の女性によって保守されており、村人全員が集団として維持するわけではない。デルタ地帯に至っては、この守護霊は村ではなく、個人の敷地や家屋の守り神でしかなくなる。すなわち、寺もナッも村の共同性を前提とするものではなく、村の凝集性を高めるものでもない。

 このように、ミャンマーの村は日本とは異なり、歴史的にも宗教的(あるいは精神的)にも「共同体」ではない。

 次回(8月4日付に掲載)は、社会的経済的視点からこの問いを掘り下げてみる。(参考文献:高橋昭雄著『ミャンマーの国と民-日緬比較村落社会論の試み-』明石書店 2012年)