
水路から水田に水をくみあげるポンプ。漏れ出た水で、水路わきの道路が浸食されている=2017年2月、カンボジア・ポーサット(プルサット)州(筆者撮影)【拡大】
カンボジアのアンコール王朝(9~15世紀)の基盤はトンレサップ湖周辺の灌漑施設にあり、半乾燥地である中部ミャンマーに展開したミャンマーの歴代王朝(11~19世紀)も農業水利の整備に力を入れてきた。
支配者が土木工事を推進したのは3国とも同様であるが、農民の共同管理はどうだろうか。
近世以降の日本は、どこの地も、水と土地を自主的に管理する村落共同体で覆われ、農民は逃げれば追われ、逃げた村でもすぐに農民になれるわけでもなかった。ところが、カンボジアやミャンマーでは、水利の整備された王朝核心部の周辺に広大な大地が広がっていた。「共同体」的な厳しい管理に嫌気がさせば、そして王朝が提供する安全な生活を捨てる覚悟があれば、天水で稲作が可能な無限の可耕地にいつでも脱出することができた。村八分の目に遭って「二分」の恩恵のために我慢して村に住む必要はなかった。当然、日本の村落共同体のように強固な凝集性を持つ集団は生成しなかったものと考えられる。そして、その構造は今も変わっていない。
それでも、ミャンマーでは農民たちが自ら水路の補修・管理をしていた。1990年代の私の調査によると、4次・5次の小用水路には、灌漑局によって水路頭が任命され、受益農民に号令して、水路の除草や浚渫(しゅんせつ)を行っていた。
しかし、1つの水路の受益には複数の村の農民が関っており、また1人で複数の水路に関っている農民も多数いた。すなわち、末端灌漑設備は村で管理するものではなく、これに関わる協同労働は、日本とは異なり、村の共同体的凝集性を高めるものではない。