今日の中国の政治的文章において、「習近平同志を核心とする党中央」や「習近平総書記の国政運営の新理念・新思想・新戦略」といった表現は不可欠で、地方の指導者の文章に「習近平」が数回登場するのは、いわば自然なことである。もし登場させなければ、習近平体制に不満があるのではないかと疑われてしまうだろう。
ところが、「人民日報」の特集に掲載された各省トップの多くの文章には、数回ではなく、十数回も登場する。たかだか3000字の文章に18回も出現するに至ってはあきれてしまった。
違和感を抱いたのは、省トップの文章に「習総書記と党中央」という、組織より個人を優先しているかのような表現がみられたことだ。文化大革命初期、毛沢東は党の文書に手を入れ、「共産党の指導」を「毛沢東同志と共産党の指導」にわざわざ修正した。その意図は自己を党の上に君臨する指導者として位置付けることにあった。
習近平は核心とはいえ党中央の一員で、習近平を特別に党中央の前に置くのはおかしいのではないか。おもねるにもほどがあろう。(敬称略)