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想定以上に売れた「N BOX」 危機に見舞われると強くなる“ホンダイズム”
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ホンダの四輪車販売と軽のシェア
ホンダの主力工場の一つ、鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)。生産ラインから軽自動車「N BOX」が次々に流れ出る。
「売れると信じていたが、こんなに売れるとは」。こう感慨深げにラインを見つめるのは、開発責任者を務めた本田技術研究所主任研究員の浅木泰昭(54)。「N BOX」は2011年末の発売以来、想定を上回るヒットで、当初複数車種を流す予定だったラインが「N BOX」だけで埋まってしまった。
「N BOX」の快走によって、ホンダの12年の軽自動車の販売シェアは前年の8.2%から16.2%に急上昇。4位から3位に浮上し、ダイハツ工業、スズキの2強を脅かす存在になった。登録車と軽自動車を合わせた乗用車全体のシェアも前年の5位から2位に一気に躍り出るオマケまでついた。
軽の「負け組」だったホンダが繰り出した「N BOX」。市場に衝撃を与えるだけでなく、ホンダ社内にも強烈な意識改革をもたらす“乾坤一擲(けんこんいってき)”のクルマとなった。
「なんで私が軽なんだ」
軽自動車の開発責任者を命じられたとき、浅木の頭に真っ先に浮かんだのはこの言葉だった。軽自動車を軽くみているからではない。今まで取り組んできた技術とつながりがなかったためだ。
浅木は長年、F1エンジンや北米向け量産車の開発などに携わってきた。エンジニアとして経験は豊かだったが、軽は経験がなかった。
だが、発想を変えるのに時間はかからなかった。「定められた規格の中で勝負するのは、軽もF1も同じ」。参戦当初、連戦連敗続きだったF1では、連勝を始めるところまで担当。「BMWだろうが、ポルシェだろうが、フェラーリだろうが、どこが相手でも勝てる」という自信が、軽自動車という新しい壁に挑む原動力になった。
軽で四輪車に参入した歴史を持つホンダ。だが、1967年に売り出した「N360」で軽の“黄金期”を築いて以来、華々しい歴史を刻んでいない。それどころか赤字体質が染みつき、社内でお荷物的な扱いが続いていた。
その間、軽を黒字化するプロジェクトが何度か立ち上がった。だが「アコード」「シビック」の輸出で高収益を上げていた社内では軽の赤字を軽くみる風潮が抜けず、プロジェクトはことごとく立ち消えていった。
こうした空気を一変させたのが、08年秋のリーマン・ショックだった。円高の進行で稼ぎ頭だった登録車輸出が赤字に陥る一方で、国内では軽市場が拡大。軽に力を入れていなかったホンダのシェアは落ち続けた。
「軽・スモール車重視に事業構造を改めろ」。09年6月に社長に就いた伊東孝紳の大号令が飛んだ。市場は軽・スモール車に着実にシフトしつつある。ホンダが崖から転落するか否かの瀬戸際といってよかった。浅木が軽の「再挑戦」を命じられたのはそんなときだった。
なぜホンダの軽が売れないのか、どうやったら他社に勝てるのか、浅木は当たり前のことを調べ上げることから始めた。ただ、チームで他社の軽と乗り比べても「技術的な感覚でいうとホンダの軽が一番良かった」。
では、なぜ売れないのか。ホンダ、そして自分の感覚が世間とズレていることに浅木は気づく。ホンダは、長らく北米向け量産車を収益源にし、“アメリカの男”の好みや体格に合うクルマ開発に徹してきた。これに対し、軽のユーザーの多くは日本の女性。まるで対極だった。「軽に対し『これはクルマじゃないだろう』という価値観が社内に正直あった」と浅木は打ち明ける。
元凶を見いだした浅木が考えたのは、単なるニーズではなく、顧客さえ気づかない潜在ニーズを見つけ出し、他社がマネできないホンダの技術で実現すること。「これができれば圧倒的に強いクルマができる」
浅木たちのチームは、綿密な市場調査やクリニックと呼ぶユーザーを交えた検討会など、市場との対話を繰り返した。そして、そこから軽のメーンユーザーである母親たちの潜在ニーズがうっすらと見えてきた。
自転車で通学している中学生や高校生の娘がクラブ活動や塾で帰りが遅くなると、心配になった母親はクルマで迎えに行く。だが、ほとんどの軽は、女性の力では自転車を積み込めなかった。娘は翌日に自転車がなくては困るので、親の言うことを聞かずに夜道を無理して自転車で帰ってくる-。
こんな不満を母親たちは持っていた。しかも軽には自転車が積み込めないものと初めからあきらめていた。
「これだ」。浅木たちの開発方針は定まった。室内が圧倒的に広くて、女性でも簡単に自転車が積み込めるクルマ。ホンダの技術力なら絶対にできるし、やらなくてはならない。浅木の気持ちは高ぶった。
軽は外寸が決まっているから、運転席が前方に移動すればするほど車体の後ろが広くなる。前部のエンジンルームを徹底的に短くすれば、スペースが稼ぎ出せる。だが、あまり短すぎると衝突時の安全性が損なわれてしまう。
浅木たちは試行錯誤の結果、衝突してもエンジンの隙間にエアコンの発電機やコンプレッサーなどが潜り込む新構造を編み出し、エンジンルームの大幅な縮小に成功。さらに小型車「フィット」で採用したホンダ独自の「センタータンクレイアウト」を取り入れ、本体の中央に燃料タンクを置くことで、軽として最大級の室内空間、そして女性が自転車を難なく積み込める低床を実現した。
浅木は、勝因の一つにエンジニアたちの意識改革を挙げる。「これまで自分の担当のことしか考えていなかったエンジン屋、衝突屋、パッケージ屋などの各エンジニアが頭を寄せ合ったことが大きい。かつてのホンダの伝統が息を吹き返した」
ホンダは“同じ釜の飯を食う”といった古き良き伝統、男の世界が持ち味だった。だが、会社が大きくなるにつれ、こうした意識が薄らいでいった。「N BOX」の開発は、東日本大震災で栃木県の開発拠点が被災し、担当全員が鈴鹿製作所に結集、寮に泊まり込んで文字通り“同じ釜の飯を食う”生活を実践した。
このままでは会社がいずれ危なくなる。しかも大震災、超円高で先行きも見えず、日本全体の雇用環境が今後どうなるかもわからない。こうした緊張感の中、エンジニア一人一人が意識を研ぎ澄まし、総力を結集して軽自動車の歴史に名を刻むことになる「N BOX」を生み出した。
ホンダは以前にも、バブルに乗り遅れて業績が低迷し「三菱自動車に吸収合併される」と噂された時期があった。だが、そのときは革新的なミニバン「オデッセイ」を生み出し、窮地を乗り切った。今「N BOX」のヒットがホンダを支える。
浅木はこう振り返る。「ホンダは危機に見舞われると、何か出てくる。これは偶然じゃない。何かが根底にあると思う」。「N BOX」の誕生は、挑戦を忘れないホンダのDNAが生き続けている証左である。浅木の胸の中にはきっとこんな言葉が詰まっている。=敬称略(小熊敦郎)