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【九州の礎を築いた群像 西鉄編(6)】バス事業 「今は赤字でも車を買え!投資しろ!」 第3の事業が「日本一」に

ニュースカテゴリ:企業の経営

【九州の礎を築いた群像 西鉄編(6)】バス事業 「今は赤字でも車を買え!投資しろ!」 第3の事業が「日本一」に

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 「今は『バスなんて赤字だ』などと言われるが将来必ず西鉄を背負う柱の事業になる。だからどんどん車両を買え! とにかく投資しろ!」

 昭和20年8月の終戦からわずか数年後。空襲の傷跡がなお残る旧国鉄博多駅(福岡市博多区祇園町)近くにあった西日本鉄道(西鉄)のバス営業所で、副社長の楢橋直幹(1891~1961)は若い社員らにこうハッパをかけた。

 楢橋は当時から戦後のバス時代の到来を予見していた。「これからはバスこそが輸送力増強の鍵になる」と説き続け、管理職から若手まで10人ほどの精鋭を集めた特命チームを編制し、戦争で中止された乗り合いバス路線の復活を進めた。

 私鉄5社合併により誕生した西鉄は昭和18~19年、戦時下の統制経済により福岡・佐賀両県の50前後の乗り合いバス事業者を統合した。保有する車両は1千台を超えたが、大戦末期の空襲で大量の車両が焼失するなど大きな損害を被り、多くの路線が運行中止に追い込まれた。昭和20年度の記録では、使用可能な車両はわずか180台、年間走行距離は計327万キロ、年間乗客総数は延べ1053万人にすぎなかった。

 八幡製鉄所を抱える北九州、産炭地である筑豊や三池、江戸時代から軽工業が盛んな久留米、商都・博多などを結ぶ公共交通網の復活は、九州だけでなく日本全体の戦後復興のカギを握っていた。

 そこで楢橋は「バスならば路面電車や鉄道よりもずっと短時間で路線を拡充でき、資金もぐんと節約できる。地元自治体の協力や許認可も取り付けやすい」と考えたのだ。

 だが、その道のりは容易ではなかった。第5代社長、野中春三(1896~1960)は、旧鉄道省出身だけに高速鉄道網の拡充に強いこだわりを持ち、バス事業には関心が薄かった。加えて当時の稼ぎ頭である路面電車部門は、客を奪いかねないバスの台頭を警戒し、「反楢崎」の機運が生まれつつあった。

 そんな状況で楢橋の後ろ盾となったのは、経理を統括する副社長の木村重吉(第6代社長、1901~1963)だった。木村は、退任後もなお影響力を持っていた第4代社長、村上巧児(1879~1963)の女婿だったこともあり、野中もぞんざいには扱えない。

 木村のゴーサインを受け、楢橋は一気に動いた。技術畑出身だけにその作業は厳格かつ緻密だった。

 特命チームの社員を各地に送り込み、道路状況や潜在的なバス需要などを徹底的に洗い出させた。その上で路線案を作り、パズルを組み合わせるように運行ダイヤを組む。社員たちを1週間ほど旅館に缶詰めにし、計画書を作成させたこともあった。少しでも詰めの甘いプランを持ち込むと怒号が飛んだ。

 「裏付けが甘い! 誰がいつ何を考え、どのように行動するのかを、もっとデータを集めて効果を検討しないとダメだ。もう一度計画を練り直せ!」

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 昭和21年夏、博多湾の砂浜をスコップで必死に掘り起こす男たちの姿があった。楢橋が肝いりで新設した西鉄車両復興課の社員らだった。砂浜に埋まった旧日本軍の軍用トラックを掘り起こしていたのだ。

 男たちはトラックを掘り出すと工場に持ち込み、痛んだ部品を修理した上で、荷台に簡素なイスを取り付けた。屋根代わりに、戦時中に軍の練習機の機体に使用していた分厚い布をかぶせた。こうして幌(ほろ)馬車のような簡易バスが完成し、市民からは「珍型バス」などと呼ばれた。

 こうした社員の苦労により、西鉄は昭和23~25年の3年間に幹線だけで36路線を開通させた。この時に運行を始めた福岡-小倉、福岡-日田などの都市間ルートは、後年の高速道路整備により時間が大幅短縮されたこともあり、現在も西鉄バス事業のドル箱路線となっている。

 25年度の運行実績は679台、年間走行距離計1691万キロ、年間乗客総数は延べ4937万人。5年前の数倍に跳ね上がった。路面電車と鉄道に次ぐ「第3の事業」に過ぎなかったバスは、27年度には最大の営業収益を稼ぎ出す存在に成長した。

 そして60年以上が経った現在、西鉄は日本一のバス会社となった。

 保有する乗り合いバスは2873台(平成24年度)、年間乗客総数は2億6千万人、年間走行距離は1億5千万キロとなり、地球から太陽までの距離を超えた。運賃収入は485億円となり、西鉄グループの営業収益の14%を占める。

 東京23区で営業する都営バスですら年間乗客総数2億1千万人、走行距離4723万キロだと聞けば、いかに西鉄が巨大なバス会社なのかが分かる。

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 戦後のバス路線拡充に心血を注いだ楢橋だが、実は昭和17年9月の5社合併前までは鉄道技師だった。合併直前まで九州鉄道のオーナーだった松永安左ヱ門(1875~1971)の命を受け、天神大牟田線の建設を現場指揮したほど「都市間高速電車」の実現に夢を馳(は)せた。

 それだけに戦後も天神大牟田線の強化にも力を入れた。鉄道はバスに比べて敷設に資金と時間を要するが、大量輸送力とスピードに優れる。「合わせて沿線開発などを進めれば、北部九州は飛躍的に発展するに違いない」と確信していた楢橋は、単線だった久留米以南の複線化を進め、車両のスピードアップも命じた。26年にはダイヤ改正を断行し、準急・普通電車の運転間隔を30分から25分に短縮させた。

 楢橋は、松永の説いた「科学的経営」の信奉者だった。この言葉を忠実に実践し、松永が目指した「交通ネットワークの拡充」を実行していった。病気で目がほとんど見えなくなったため、28年に退職するが、その意志は部下たちに受け継がれていった。

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 昭和20年代後半から30年代末にかけ、九州の幹線道路でアスファルト舗装が急ピッチで進んだ。バス事業拡大の好機と踏んだ西鉄は全国に先駆け、近隣県のバス会社と相互乗り入れ協定を結び、県境をまたぐ中・長距離バスの拡充を進めた。25年には福岡-大分間で長距離バスを、37年には福岡-熊本間の特急「ひのくに」の運行を始めた。

 路線拡充の先頭に立ったのが、入社数年目にして楢橋の特命チームで薫陶を受けた後の第12代社長、大屋麗之助(90)と後の専務、西川宏(故人)だった。二人は同期入社で仲がよく、東京帝国大学第一工学部出身の大屋は、長距離化に伴う車両改良など技術面の強化に大なたを振るった。文系の西川は県外バス会社との交渉など営業面を指揮した。

 東京五輪が開催された39年度には、乗り合いバスの車両数は2233台となり、乗客総数5億2千万人、走行距離1億2千万キロに達した。この年の運賃収入は94億6千万円にのぼり、グループの営業収益の54%を稼ぎだした。

 だが、昭和40年代に入ると一転、バスは「冬の時代」を迎える。乗客数は39年度をピークに減り続け、49年度は4億人まで落ち込んだ。

 原因は急速なマイカーの普及だった。市街地では交通渋滞が慢性化し、バスの目的地までの所要時間は増えるばかり。行政にバスは「邪魔者」と見なされ、福岡や北九州両市の中心部では渋滞緩和策として運行回数を制限された。

 38~45年に第9代社長を務めた楠根宗生(1901~1989)と、45~56年の第10代社長、吉本弘次(1912~1990)は逆風の中、バスのワンマン化による経営効率化を進め、50年までに車掌を全廃した。

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 この時代、明るい話がなかったわけではない。

 昭和48年11月16日に福岡-熊本間の九州自動車道が完成した。西鉄は翌日から長距離バス「ひのくに」のルートを国道3号から九州自動車道に変更した。

 6年後の54年、福岡-北九州間も高速道路で結ばれた。西川は常務、専務として高速バス拡充にバス事業の命運をかけた。「高速路線を全国に伸ばせ! まずは大阪、次は東京だ!」。西川は部下にこう号令をかけ、58年に福岡・北九州-大阪間の夜行バス「ムーンライト号」を就航させるなど人気路線を次々に生み出した。

 高速バス網は一時よりやや縮小したとはいえ、現在も26路線で1日1100便を運行する。年間乗客総数700万人を超え、運賃収入は80億円に上る。

 51~57年にはバス以上に大赤字だった路面電車の廃止が進んだことから、バス利用客が大幅に増えた。また、マイカーによる交通渋滞に業を煮やした行政側が「バス優遇」へと態度を豹変(ひょうへん)させ、福岡市や北九州市などの都心部で乗り合いバス専用レーンを設けたことも乗客増加を後押しした。56年度には乗り合いバスの乗客総数は4億2千万人まで回復した。

 だが、それもつかの間。56年に福岡市営地下鉄の天神-室見間が開通、その後も延伸が進むに従い、乗客数は再び急下降した。

 61年以降は過疎地域での不採算路線を次々に子会社化するなど手を打ったが、62年度にバス部門は初の営業赤字に陥った。

 このまま「バス離れ」が進めばバス事業の大幅縮小は避けられない-。危機感を募らせた西鉄は新たな乗客の開拓を目指し、大胆な策に打って出る。(敬称略)

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