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【九州の礎を築いた群像 西鉄編(4)】西鉄誕生 松永安左ヱ門と小林一三「臭い飯」が結んだ友情/都市間高速電車に心血注ぐが…
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「関門トンネルも開通して営業範囲は九州より広がる。これからは福岡県が西日本の中心になるじゃろう。会社にも『西日本』を冠してはどうか」
戦況が悪化し、国家による産業統制が厳しさを増した昭和17年9月22日、九州電気軌道を中心に福岡県内の電鉄5社が合併した。
この直前、5社の代表者による合併の最終協議の場で、当時79歳の博多湾鉄道汽船社長、太田清蔵(1863-1946)は新社名を「西日本鉄道」とするよう提案した。他に「九州運輸」などの名も候補に挙がっていたが、他の4人もスケールの大きな太田の案に賛同、この瞬間から西鉄の名が歴史を刻み始めた。
合併した5社とは、現北九州市の小倉や門司などで路面電車を運営していた九州電気軌道(後の北九州線=廃線)▽博多湾鉄道汽船(現・貝塚線、JR香椎線)▽九州鉄道(現・天神大牟田線)▽福博電車(後の福岡市内線=廃線)▽筑前参宮鉄道(後の国鉄勝田線=廃線)。西鉄はその後2年間で県内のバス会社を次々に統合し、電鉄5、バス48社からなる西鉄の原型が出来上がった。もっとも、電鉄5社もそれぞれ統合を繰り返してきた歴史を持っているだけに、西鉄の源流をたどるのは容易ではない。強いて言うならば、福岡県の100社以上の巨大な寄せ集め企業だと言えよう。
5社合併までの黎明期の歴史をひもとくと、筑豊を拠点に活躍し、「炭鉱王」と呼ばれた麻生太吉(1857-1933、麻生太郎副首相兼財務相の曾祖父)や、福岡市の発展に貢献した渡辺與八郎(1866-1911)ら、戦前の大物財界人が数多く表舞台に登場する。太田も鉄道、電力、金融・保険などの事業を幅広く手がけた。
中でも西鉄の礎を築いたといえるのは、長崎県・壱岐出身の実業家、松永安左ヱ門(1875-1971)だろう。戦前の五大電力の1つ、東邦電力の総帥で「電力王」「電力の鬼」と言われた人物であり、九州電力や西部ガスの礎を築いたのも松永だった。
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「相場より高くてもいいからどんどん用地を買え。早く片付けてしまえ!」
昭和10年前後、松永は東京から一昼夜かけて鉄道や船を乗り継ぎ、たびたび福岡・天神を訪れては、東邦電力傘下の九州鉄道社長、進藤甲兵を怒鳴りつけた。用地買収が思うように進まず、自らが肝いりで進める福岡-熊本間の都市間高速電車「九州鉄道」計画が難航していたからだ。
松永は大正11年から九州鉄道計画を陣頭指揮した。福岡-熊本の2大都市の間には、陸軍が第12師団を置く久留米、三井財閥が拠点を置く産炭地である大牟田などもある。この間を高速電車で結べば、「産業発展の大動脈となる」と確信していたのだ。
当時は、電車と言えば、市街地を走る路面電車が主流であり、遠距離の都市や港湾などを結ぶ鉄道は蒸気機関車がその役割を担っていた。高速電車で遠距離を結ぶ構想は周囲に「お道楽」と揶揄された。
だが、「必ず電力の時代が来る」と信じて疑わない松永はそんな批判は気にもとめず、ひたすら計画に巨費を投じ続けた。
大正13年、福岡-久留米間(39キロ)が開業した。だが、久留米以南への延伸には鉄道省の敷設許可がなかなか下りず、用地買収も思うように進まなかった。1929(昭和4)年の米ニューヨーク証券取引所の株価暴落に端を発する世界恐慌の影響は日本にも及び、資金調達も滞った。
延伸が危ぶまれる中、松永は昭和8年、部下の中でも「戦闘力ナンバーワン」と信頼する進藤甲兵を社長として送り込んだ。進藤は東邦電力の東京進出の陣頭指揮を執り、国内最大の電力会社、東京電燈を相手に、価格破壊による需要家争奪戦を展開した人物だった。
その進藤でさえも用地買収には苦労したようだが、松永の援護射撃もあり、ジワジワと延伸を重ね、昭和14年、ようやく福岡-大牟田間(74キロ)が開業した。これが現在の西鉄天神大牟田線の原型である。
「交通機関はネットワークを拡大させることで経営基盤を安定させ、運賃も引き下げを図るべきだ」
松永は、かねて乱立する私鉄を統合させ、利便性を上げることが経済発展につながると説き続けていた。九州鉄道の延伸の過程でも沿線の二日市-太宰府間の太宰府軌道(現在の西鉄太宰府線)などローカル線を次々に買収し、支線化していった。
昭和16年、松永は満を持して大牟田-熊本間の建設・運行を担う「大熊鉄道」を設立、鉄道省に鉄道敷設を出願した。ところが、この年の12月8日、連合艦隊による真珠湾攻撃を機に日米は全面戦争に突入。熊本県側の福岡資本進出への反発も強く計画は頓挫した。
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松永は昭和9年に、福岡市で路面電車を運営していた博多電気軌道の経営権を掌握し、福博電車を設立させていた。松永は、電力事業のパイオニアとしての印象が強いが、電力を利用した運輸網の拡大についても「車の両輪」と捉えていたようだ。
鉄道経営にのめりこんだ理由はもう一つある。阪急電鉄の創業者、小林一三(1873-1957)の存在である。
小林は九州鉄道より一足早い大正9年、大阪-神戸を結ぶ都市間高速電車「阪急神戸線」を開通させていた。沿線で宅地開発を進めるとともに、ターミナル駅に百貨店や娯楽施設などを作り、相乗効果で沿線を発展させる私鉄のビジネスモデルを築いた人物である。
松永と小林は慶應義塾の同窓でもあるが、その絆を強固にさせたのが、明治43年の収賄事件だった。
小林が、松永に紹介してもらった大阪市助役と市議に賄賂を送り、大阪市内の路線延長の認可を求めたところ、警察に2人とも逮捕されてしまったのだ。当時は贈賄側は罪に問われなかったが、「助役らを売るような真似はできない」と考えた2人は、当の助役らが容疑を認めているにもかかわらず、一切口を割らず、数週間も拘束され、同じ「臭い飯」を食べた。
鉄道事業の手法を小林から学んだ松永は、九州鉄道の発着駅を福岡・天神に建設した。当時の天神は城下町の外れの寂しい住宅街にすぎなかったが、逆にそれだけ開発の余地が大きいと踏んだようだ。
次にターミナルデパートを誘致するべく、百貨店開業を計画していた呉服商の中牟田喜兵衛を小林に引き合わせた。中牟田は、当時の商業の中心地だった博多・呉服町界隈への出店を検討していたが、松永らの説得を受け、天神への出店を決意。阪急からノウハウを学んだ上で昭和11年10月、百貨店岩田屋を開業した。
また、松永は、九州鉄道春日原駅周辺に球場や競馬場を整備するなど沿線開発にも取り組んだ。
西鉄は戦後、九州鉄道=天神大牟田線を基軸にバス路線網を拡大し、売り上げを伸ばした。平成24年度の鉄道事業の売上高は213億円(グループ会社の筑豊電鉄をのぞく)で西鉄グループ全体の6%にすぎないが、天神大牟田線が経営の基軸であることに変わりはない。百年先まで見据えた松永の先見の明は驚愕に値する。
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だが、戦争拡大に伴い、松永は追い込まれていく。「聖戦目的完遂のため」と産業の国家統制はますます強まったからだ。
政府は国家総動員法に基づき、電力事業を国家管理下に置くべく電力会社の再編を進め、昭和17年に東邦電力は解散に追い込まれた。松永は「官僚は人間のクズだ」と吐き捨て、67歳で産業界の第一線から身を引き、隠居生活に入ってしまう。松永は電力も鉄道も統合論者ではあったが、あくまでも民間主導でやるべきであり、国家管理は産業力を弱めるだけだと考えていたのだ。
同じ頃、福岡県内では電鉄5社合併に向けた協議が佳境を迎えていた。
東邦電力は5社のうち九州鉄道と福博電車を傘下に収めていた。残る3社のうち博多湾鉄道汽船と筑前参宮鉄道の2社は太田清蔵が経営権を握っていた。
太田は博多の油商「太田屋」の4代目当主だが、明治29年、油のライバルである電気の将来性に目をつけ、県内初の電気供給事業「博多電灯」を設立した。また、経営危機にあった第一徴兵保険(後の東邦生命保険)を引き受け、再建にも力を入れていた。
合併協議の焦点は「東邦電力解散により九州鉄道と福博電車の株はどこに渡るのか」だった。
多くの関係者は太田が有力とみていたが、松永が選んだのは太田ではなく、九州電気軌道第4代社長、村上巧児への譲渡だった。
松永の真意はわからない。おそらく自らの「私鉄統合によるネットワーク拡大を進めるべき」という考え方に、村上がもっとも近いと考えたのではないか。太田も電鉄統合を提唱していたが、過去に会社設立をめぐって松永と衝突したこともあり、その辺りの人間関係も影響したのかもしれない。
いずれにせよ、松永の決断により、村上が5社中3社の社長に就任する結果となり、九州電気軌道が他の4社を吸収する方向での合併が一気に進んだ。昭和17年9月22日、九州電気軌道は「西日本鉄道」に社名を変更、事実上の初代社長となる村上は第4代社長を名乗った。 (敬称略)