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山崎豊子さん死去 不本意だった「社会派作家」の肩書き

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山崎豊子さん死去 不本意だった「社会派作家」の肩書き

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 新聞記者出身らしく、地面を這いずり回るような徹底した現場取材で作品を描き続けた作家の山崎豊子さんが29日、亡くなった。不条理を許さず、世間が目を背ける対象に鋭い視点を当て、小説という手法で切り込んでいく「命がけの作品」は多くの読者の心をつかんだ。

 大阪の豪商が集まる一角「船場」にある老舗昆布屋の長女に生まれた。船場生まれで船場育ちの女の子は、通常「嬢(いと)はん」と呼ばれるが、幼い山崎さんはわんぱくな男の子を意味する「こぼんちゃん」で通っていた。

 小学生時代は、女子をいじめる男子を見ると黙っておられず、箒(ほうき)や棒きれで男子の頭や背中をたたき、「堪忍」と謝って逃げ出すまで容赦しなかった。

 小学生のときから読書が一番の趣味で、外国の長編小説「ああ無情」「巌窟王」「小公女」などを好んだ。夏休みには「堺にある高師ノ浜の家で過ごし、日陰の庭に吊したハンモックに揺られながら読むのが好きだった」と話していた。

 戦時中は学徒動員のため軍需工場で砲弾磨きに従事した。フランスの作家、バルザックの小説を持っていたのが将校に見つかり、殴打された記憶は今も心の傷として残る。「戦争の不条理、その暴力性が、私たちの世代の心と体にはしみついている」と話す。

 毎日新聞大阪本社で新聞記者になったのは「正直いって、戦争が嫌だったから」と語っていたという。就職前に作家になろうと考えたのは一度もなく、小説を書くきっかけを作った人物が作家の井上靖さん(1907~91年)だった。

 井上さんは、毎日新聞学芸部に勤務していたときの直属の上司だった。井上さんから「人は自分の身近なことを美化せず、真実を書けば、誰でも一編の小説が書ける」と助言されたのを機に、船場で昆布屋を営む浪速商人の人生を描いた処女作「暖簾」を7年がかりで仕上げた。

 初期の頃は、船場などの大阪風俗に密着した世界を描いた作品が多い。吉本興業創業者の吉本せい(1889~1950年)をモデルにした「花のれん」で、直木賞を受賞した際、「禿げ山に木を一本、一本、植林していくような、いわば植林小説を書いていきたい」と抱負を述べた。

 言葉通り、その後は、中国残留孤児の激動の半生を描いた「大地の子」や、腐敗した航空会社に翻弄されながら生き抜く一社員の生き様「沈まぬ太陽」、政界に挑むジャーナリズムのあり方を問う「運命の人」など体験者の証言と取材を基に次々と名作を生んだ。

 大病院を舞台に医療界の暗部を描き出した「白い巨塔」を契機に、世間から「社会派作家」と呼ばれた。だが、本人はその肩書きに不本意だった。「弱い立場の人を見過ごさせない、不条理を許せないという元来の性格が、たまたま社会的テーマに広がっただけ」と語っていたという。

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