【視点】存亡の危機 現実の「息づかい」が見える 産経新聞論説委員・清湖口敏
更新では「存亡の機」を「本来」とする理由は何なのだろう。次の2つが思い当たる。
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諸葛亮の「出師表(すいしのひょう)」を出典とする言葉に「危急存亡の秋(とき)」があるが、この秋とは機(時機)のことだから、「存亡の秋」は「存亡の機」とも言い換えられる。したがって「存亡の機」が本来の言い方であるというのが第1の理由だ。いま一つは、存亡には「亡」とともに「存」の意味もあるから、存亡の岐路に立ったところで必ずしも危機とはいえないという理屈である。
なるほど、論理的にはそうかもしれない。手元の数種の国語辞典にあたっても、大抵が「存亡の機」や「存亡の秋」を用例に載せ、「存亡の危機」を掲げる辞書は一つもなかった。
それでも私は、あくまで個人的な見解ながら、「存亡の危機」も「存亡の機」同様に、本来の言い方、正当な表現だと認定してやりたいのである。
ご紹介したいのが「帯説(たいせつ)」だ。帯説とは「字音語の熟語を構成する漢字のうち、対極的な用法を持つ一方がその文脈においては積極的に意味を持たぬもの」(新明解国語辞典)をいう。「緩急」は、互いに対立する意味をもつ「緩」と「急」で構成される熟語だが、これが「一旦緩急あれば」というふうに用いられた場合、緩の字が全く意味をなしていないことが分かる。恩と恨みを表す「恩讐(おんしゅう)」も、「恩讐を超えて」「恩讐の彼方(かなた)」などというとき、そこに恩の要素が入る余地はない。このような文脈での「緩」や「恩」が帯説である。
