ラーメンとニッポン経済

1987-「環七ラーメン戦争」 九州ド豚骨、濃度とスメルで東都に進出!

佐々木正孝
佐々木正孝

 『なんでんかんでん』は、創業時から豚のゲンコツ(大腿骨)、頭骨を水でひたすら煮込み続けるというシンプルにして強力な製法をとった。強火で加熱され続けた豚骨は骨髄から旨み、油分が溶出し、とことん濃厚なスープに変貌する。こうしたド豚骨スープを飲み干せば、ざらりとした骨粉が丼の底にたまっているほどだ。しかし、強火によるガン炊きは強烈な豚骨臭という副産物も生む。店の外まで漂うスメルは関東人にはなじみが薄く、忌避する人も少なくなかった。職人たちが本場の再現に二の足を踏んだのも当然のことだ。

 しかし、『なんでんかんでん』創業時の羽根木付近は人通りも街灯も少なく、車だけが猛スピードで行き交う環状7号線沿い。バブル景気に湧く日本は地価、家賃も高騰しており、川原らにとってやむなく選んだ物件だったが、ここなら近隣に漏れ出る豚骨臭を気兼ねすることもない。かくして、この地から豚骨サクセスストーリーが、そして「環七ラーメン戦争」の戦端が幕を開ける。

■モータリゼーション×バブル景気が行列ラーメンを後押し

 ここで「ラーメン戦争」の戦場となった環七通りについて整理しておこう。正式名称は東京都道318号環状七号線。平和島(大田区)を起点に臨海町(江戸川区)まで環状に結ぶ道路だ。計画は関東大震災後の1927年に策定された都市整備計画に遡るが、長く用地買収が難航。全線開通へ向けて加速したのは64年東京オリンピック前のことだった。五輪の人流・物流を支えるべく、羽田空港から北区北部まで一気に開通。その後も長く整備が進み、85年にようやく全線が開通する。

 70年代までは世田谷区、杉並区、練馬区は未舗装も多く、車が運転しやすい道路は決して多くなかった。そこに、片側2車線の幹線道路として環七が開けた。ここが東京西部のモータリゼーションを進める主要道路になったのは言うまでもない。

 富裕層の象徴だった自家用車が中流家庭にも当たり前になってきた時代だ。60年代半ばは18歳以上における免許保持者は約1割に過ぎなかったが、84年には5000万人を超え、乗用車の保有台数も2600万台を突破。かくして、高嶺の花だった自動車も、80年代中盤には日常にビルトインした「生活必需品」になっていく。

 バブル期を象徴する高級車「日産シーマ」に憧れる若者たちはトヨタソアラ、日産シルビア、ホンダプレリュードに飛びついた。家族共用ではなく「自分の車」を手に入れ、機動力を高めた若者たちの目の前に広がった景色の一つが、目くるめくフードの百花繚乱だった。

 フードジャーナリストの畑中三応子によると、80年代に流行した外食の新業態は「アメリカンスタイルのカジュアルレストラン、シーフードレストラン、いけす活魚点、デリカテッセン複合店、京風ラーメン、カフェバー、大皿惣菜居酒屋、飲茶、海鮮中華、台湾小皿料理、エスニック料理」など。これらの店では「味・値段・サービス」にも増して、デザインと雰囲気、エンターテインメント性が重視されたという。「グルメ」というフレーズが人口に膾炙した80年代、「飲食スペースが刺激的な快楽消費の場に変わった」のだ。

 環八沿いにはカジュアルレストランが集積した「用賀アメリカ村」が登場。若者たちが車で大挙として押し寄せ、駐車場には順番待ちの行列ができたという。『ホットドッグ・プレス』『POPEYE』といったヤング情報誌はデートレストランが誌面を飾ったが、男同士でつるむ若者たちはデートフードではなくコッテリ・濃厚なラーメンに傾斜する。彼らが嗅ぎつけたのが『なんでんかんでん』の豚骨スメルであり、さらに「背脂チャッチャ系」の表面を覆う凶暴な背脂の沼だった。

Recommend

Biz Plus

Ranking

アクセスランキング