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井の頭線に揺られながら読書を夢見る 長塚圭史
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吉祥寺にて芝居の公演をしていたため、日々井の頭線に揺られていた。井の頭線というのを実は大変に気に入っていて、まず、それなりに名のある区々(まちまち)を抜けて行くのに、風景はのんびりしていて、妙竹林な塔やギラギラした高層住宅みたいなものがそれほど目につかず、比較的穏やかな気持ちで揺られている事が出来るということ。下北沢駅は改装中でやたらとややこしいし、明大前駅も以前と違うような気もするけれど(長く下車していないのでわからないのだけれど)、いずれにしても渋谷駅の東急東横線ほど地中深くもないし、別の路線と絡み合ってしまったわけでもないので、利用する際、昔と変わらず混乱する事もないということ。吉祥寺駅と渋谷駅の距離感が適度であること。急行と各駅電車の配分がスマートなこと。
このお気に入りの井の頭線の往復で、私は居眠りをしたり本を読んだり放心したり乗り合わせた仲間とお喋りしたりやっぱり居眠りしたりしていたわけなのだけれど、とりわけこの、のんびりした電車に揺られて読書をするのが気に入った。
適度に揺れる乗り物で読書をするのは良い。気持ちが悪いという人もあるだろうが、あまり気張らずに眺められるし、つまりいつ読みやめたとしても、それは内容が難しいからとかそういうことではなく、ただ揺られているので眠くなってとか、さすがに揺られすぎて読みづらく、とかそういった理由になるわけで、背筋を伸ばさないようなところが柔らかくて良いのだ。
2週間程の公演期間中に開いた本は、福田恆存(つねあり)、柄谷行人(からたに・こうじん)、若桑みどり、三好十郎、ボルヘスなど雑多であり、始めから最後までしっかりと読みましょうという本もあれば、断片的に読み進めているようなもの、また一編の評論や短編だけを読むものなど様々である。ラテン・アメリカ文学の翻訳者である木村榮一氏の『翻訳に遊ぶ』という本があって、これは翻訳についての様々な苦労や葛藤、また多くの素晴らしい作家と出会っていった中での発見や閃(ひらめ)きなどが、涎(よだれ)が出てしまいそうな種々の引用と共に著されており、翻訳を目指す者の指南書となるだけでなく、翻訳物を読むという行為に対する視野も開け、これは目次通りにワクワクしながら読み進めた。
その中にアルベール・ティボーデという人が分類したレクトゥールとリズールの違いについてというのがあって、レクトゥールというのは普通の読者、つまり「小説に娯楽、清涼剤、日々の生活のちょっとした休息、そういうものしか求めない。この人たちは忘れっぽく、その読書は絶えず新しいものに走り、自分の生活の素材や本質には大して影響しない」。一方リズールは精読者で「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界、すなわち人間の他の諸種の人生的目標と同じ深さをもって全人間をとらえうるものとして存在する領域において選ばれている人たちである」というものだ。木村氏が自らをリズールと称するわけもなく、そうした素養が翻訳者には必要だと述べているのだが、私にとってこのリズールというのが大変に羨ましいというか、自らが情けないというのか、私が敬愛する作家は総じてリズールであって、素晴らしい書き手であると同時に、読み手としての達人でもある。ボルヘス然り。澁澤龍彦然り。
レクトゥール的私は少年時代の読書へ記憶の糸を伸ばしてみるのだが、何処まで行っても曖昧模糊(あいまいもこ)とするばかり。
高校時代に読み耽(ふけ)った坂口安吾でさえ、あれだけ読んだのに、いやもしかするとあまりに読みすぎてしまったゆえに、どの作品も混じり合い絡まり合って一つの塊のようになってしまい、それをちょっとずつ剥がしてゆこうと数年前に全集を手に入れ、まだ手をつけずにいる。レクトゥールの反抗としては、しかしそうした靄のかかったような読書の中でさえ、煌(きら)めいたその瞬間は確かにあって、それを逃しさえしなければ、案外、生活の素材や本質に強い影響を残す事もあるのだ。というように抗(あらが)いつつ、井の頭線に揺られ揺られて、リズールへの嫉妬も、レクトゥールの抵抗も、夢のまにまに遠ざかるのかどうなのか。(演出家 長塚圭史、写真も/SANKEI EXPRESS)