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笑顔のルーツは憧れの母 佐藤真海

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笑顔のルーツは憧れの母 佐藤真海

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 【パラリンピアン・ライフ】

 幼少のころ、私は母の後ろをくっついて歩くのが大好きでした。母が車で外出するとき、エンジンがかかった音を聞くと、急いで車に駆け寄って一緒について行きました。近所のスーパーへの買い物だったり、どこへ行くにも一緒の「母っ子」でした。

 印象的だったのは、母の笑顔です。いつでも、誰とでもニコニコと話すことができる母をうらやましく思っていました。私はシャイな性格で、母のように自然な笑顔で人と会話をすることが苦手でした。でも、母のそばにいることで、笑顔で過ごす時間が多くなっていきました。

 そんな母と、その母を見て育った私が、意識して笑顔を作らなければならない状況が大学2年の冬に訪れました。私の右足に骨肉腫が見つかり、生きるためには膝から下を切断しなければならなくなったときです。母と2人、笑顔で再検査の結果を聞きに病院に行ったのを覚えています。悪い予感はもちろんありましたが、どこかで「何かの間違いでは」という期待を抱き、お互いに暗い顔は見せませんでした。

 診察室の扉を開けた私たち母娘の表情を見た医師は、「前の病院でなんて聞いてきたんですか」と、あっけにとられていました。きっと、病状の深刻さをわかっていないと思ったのでしょう。もちろん、そんなわけはありませんでした。不安を打ち消すために、笑顔を作っていたのです。

 その後も、実は2人で泣き合ったことがありません。母は手術で右膝下を失う私に「代われるものなら、代わってあげたい」と言い、「神様は乗り越えられない試練は与えないんだよ」と励ましてくれました。そのときも、母は淡々と語りかけていました。私が恐怖に一人で泣いたのと同じように、母も一人のときに泣いたそうです。

 震災で実家が津波被害に遭ったときも、「あなたの病気のときに比べたら全然何ともない」と笑っていました。気を張っているように見えましたが、母のタフさに、私も安心できました。

 困難を乗り越えるとき

 闘病生活が本格化しても、意識して笑顔を心がけました。手術のことやそのためにチアリーダーの活動を休まなければならないことを仲間たちに告げるときも、「私は大丈夫。戻ってこれるように頑張るね」と、できるだけ前向きな気持ちだけを伝えました。

 心配をかけたくない、同情されたくないという気持ちもありました。顔の表情は、自分の意思から出ます。当時の私は必死に笑顔を作っていましたが、ときに強がったり、ときに悲しさを抑えたりもしていたので、そんな雰囲気も出ていたかもしれません。だけど、笑顔でいることで気持ちが前向きになれたのも事実です。「暗いときに暗い表情をしていてもマイナスでしかない」。そう思って、前だけを向くようにしました。

 振り返れば、入院中には、同じような人たちにたくさん出会いました。私より病状が重かったり、手術すらできなかったりする状況のお兄さんやお姉さんが、いつも笑顔で接してくれました。不安がない人なんていなかったはずです。「人間は困難を乗り越えようとするとき、そうなるのかなあ。これ以上のつらさを感じないように、自分で自分を守るために感情にふたをするのかなあ」。そんなことを思わされる日々でもありました。

 人を元気にする力

 もう一度、心から自然に笑えた瞬間は、義足を装着して走ったときです。

 退院から約半年を経た大学4年の春。もちろん、最初なので走り方もぎこちなかったのですが、両足で地を蹴り、体でスピードを感じることができて、とてもうれしかったです。「これで、自分も前に進める。乗り越えていけるぞ」と、明るい未来への期待に胸が膨らみました。

 退院後はすぐに大学に戻りましたが、まわりはもう就職活動の準備にとりかかっていました。私は抗がん剤の影響でまだ頭髪もかつらでした。

 友人たちとの環境の違いに、取り残されたような焦りが募る日々で、このときほどつらい気持ちのまま笑っていたことはありませんでした。それが年が明けて、最初は水泳から再びスポーツを始め、そして両足で再び走る感覚までつかめたことで、道が開けていった気がしたのです。パラリンピックという目標もでき、気持ちがどんどん前向きになっていきました。

 母がかつてのような自然な笑顔を浮かべたのは、もっと先だったような気がします。私が義足になったことを完全に吹っ切って、陸上に夢中になってようやくだったのかなと。

 そんな母が9月20日、60歳の誕生日を迎えました。当日はたまたま親しい人たちが東京五輪招致の最終プレゼンターを務めたことの慰労会を開いてくれ、母にも来てもらいました。

 母は「真海の母であることを誇りに思います」と、とびきりの笑顔で語ってくれました。

 私は今回のプレゼンを機に「笑顔」が代名詞のように言ってもらうことが増えましたが、母の表情こそが、私が憧れ続けた「笑顔のルーツ」でもあるのです。

 最近は、「笑顔には、人を元気にする力がある」と思うようになりました。“真海スマイル”と新聞などで書かれていると少し照れますが(笑)。これからも、自分らしい笑顔に「年輪」を重ねていきたいです。(女子走り幅跳び選手 佐藤真海/SANKEI EXPRESS

 ■さとう・まみ 1982年3月12日、宮城県気仙沼市生まれ。早大時代に骨肉腫を発症し、20歳のときに右足膝下を切断して義足生活に。大学3年だった2003年1月から高校時代以来の陸上競技を再開。女子走り幅跳びで04年アテネ大会から12年ロンドン大会まで3大会連続でパラリンピックに出場。今春にマークした5メートル02センチは義足選手の日本記録。サントリーに勤務する傍ら講演などでパラリンピックの普及・啓発にも取り組む。

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