SankeiBiz for mobile

【軍事情勢】昭和天皇と乃木大将、山川東京帝大総長の涙

ニュースカテゴリ:EX CONTENTSの国際

【軍事情勢】昭和天皇と乃木大将、山川東京帝大総長の涙

更新

 産経新聞では9月14日より、宮内庁が編纂した《昭和天皇実録》の内容につき随時掲載を始めた。初回は先帝(昭和天皇)陛下と、陛下の人格形成に影響を与えた大日本帝國陸軍の乃木希典大将(1849~1912年)に焦点を当てた。明治天皇(1852~1912年)の大喪儀が行われた大正元(1912)年9月13日、乃木が妻とともに自刃し、それを聴かれた当時11歳の昭和天皇は《御落涙になる》。その一文の真上=一面題字横に読者の投稿詩を掲載する欄がある。14日の題は《心》。「心約」の二文字を思い出した。

 会津藩白虎隊出身で東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(1854~1931年)によれば、約束には起請文などを記す「証約」や「口約=口約束」「黙約=黙契」の他に「心約」がある。心約とは相手に知らせず、己の心のうちに秘めた約束で、乃木の殉死は心約の発露だったと説く。乃木が心約を結んだ相手は、日露戦争(1904~05年)の旅順要塞攻略で散った1万5400人の名も無き麾下将兵達。多くの将兵を死なせた乃木が己に課した、死を賭した約束であった。

 「会津は朝敵ではない」

 山川は晩年、よく昔に思いを馳せたが、心約を解す件も一連の回顧の中に見る。ただし、戊辰戦争(1868~69年)で、おびただしい戦没者を出した会津の悲劇を背負う山川は生き抜くことの意味を訴え、自裁に批判的だ。

 門司駅の構内主任が、天皇行幸の妨げになるような脱線事故を起こしたとして、責任を取って自殺した一件も評価しない。当時の人は忠義の極みだと建碑運動を起こしたが反対。新聞でも反論した。本当の忠義は恥を忍んで生き抜いて、二度と事故が起きないようにする-との信念からだ。

 ところが、その同じ文脈の中で、山川は続ける。

 「乃木将軍の殉死は、いわば心約ともいうべきものだ。幾多の戦役で大勢の部下を死に至らしめた。お前方ばかり死なせんぞ、おれも追付け死ぬから、君等も死んでくれと、心に約束され、それを果たされたのだ」

 山川は乃木の心約に心打たれた。一方で、生ある限り世のため人のために尽くして、この世を去るといった姿勢には、官軍・長州藩の支藩=長府藩士だった乃木と違い、会津藩士の家に生まれた者として、生きて朝敵の汚名を雪ぐ悲願も内在していたのではないか。山川が1914年に流した涙が裏付ける。この年、東宮御学問所評議員に選ばれるが、学習院院長になっていた乃木は殉死前、山川を推薦していた。時の皇太子、後の昭和天皇の御教育を担う名誉この上ない大任で、山川は「会津は朝敵ではない」と感激し、涙している。

 追腹で完結した「心約」

 乃木も泣いた。日露戦争後、乃木は明治天皇に拝謁し、多くの将兵を失った責任を取るべく全役職の解任を願い出る。と、明治天皇は「負ける戦いなれど、乃木なればこそ」とねぎらった上で「乃木は辞められるから良い」と一言。ややあって「天皇は辞められぬ」と仰せられた。静まり返る周囲。乃木はといえば、陛下の大御心の重みに立つことも適わず泣き崩れる。退出する乃木に、明治天皇は「乃木、早まるな。乃木にはまだやることがある」と、声を掛けられた。乃木の屠腹を見抜いておられた明治天皇は、迪宮(みちのみや)裕仁親王(後の昭和天皇)の御教育まで託さんと、学習院院長就任への大命を下した。乃木は天皇に「活=生かされた」のである。

 西南戦争(1877年)で、軍旗を奪われ、自らを生涯責め続けた乃木は、既に20歳代後半で自裁を決心していたやもしれぬ。そこに心約が加わる。死ぬる時機を見極め続けた乃木は、明治天皇に諫められた。凡夫であれば決心が鈍る。その覚悟を天下に公言したわけではなく、心変わりしても何人も気付かない。

 時代は下がるが大東亜戦争(1941~45年)劈頭の真珠湾攻撃で、特殊潜航艇=甲標的に乗り込み未帰還となった九軍神について、ジャーナリストの菊池寛(1888~1948年)は「長時間に亘つて死を覚悟し、然もそれを最期まで持ち続けてゐた」と激賞している。確率は極めて低いとはいえ、生還を前提とする甲標的による作戦は、後の特攻とは違い、生への執着が棄て切れなくても不思議はない。時間の経過や環境・立場の変化で覚悟は揺らぐ。吉良邸討ち入り前に脱落した赤穂浪士然り。

 明治天皇のお心に忠実であらんとした乃木は、崩御をもって追腹に至る。ここに心約は完結した。乃木の一生はあくまで清く、あくまで静謐である反面、凄絶なのは心約故だ。

 佐賀県行幸での御落涙

 ところで冒頭、昭和天皇《御落涙》に触れたが、涙を流される場面は乃木殉死時の他、実録にはほとんどない、という。ならば先帝陛下が昭和24(1949)年、敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環として、佐賀県に行幸された際の逸話を残しておかねばなるまい。

 訪れた寺は境内で戦災孤児を養っていた。陛下は笑みをたたえ、子供たちに腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。しかし、最後の部屋では身じろぎもせず、厳しい尊顔になる。一点を凝視しお尋ねになった。

 「お父さん、お母さん?」

 少女は2基の位牌を抱いていた。少女は「はい」と答えた。陛下は「どこで?」と、たたみ掛けられた。

 「父は満ソ国境で名誉の戦死を。母は引き揚げ途中で病のために亡くなりました」

 「お寂しい?」と質された。少女は語り始めた。

 「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子はお父さんお母さんと、お浄土に行ったらきっとまた会うことができるのです。お父さんに、お母さんに会いたいと思うとき御仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの、そっとお母さんの名前を呼びます。すると、お父さんもお母さんも私の側にやってきて抱いてくれます。だから寂しいことはありません。私は仏の子です」

 陛下は少女の頭を撫で「仏の子はお幸せね。立派に育っておくれよ」と仰せられた。見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。少女は、小声で「お父さん」と囁いた。陛下は深く深くうなずかれた。

 皇統を頂き、乃木や山川を輩出できる国柄。実に誇らしい。(政治部専門委員 野口裕之)

ランキング