日本でいろいろな人と話していると、日本という国あるいは社会をとても批判的に語る人が少なくない。その特性が「自虐的国民」と表現されることもある。
しかし、自分の住んでいる社会に愚痴を言うのは、日本の人に限ったことではない。いわば「文句の多い奴」はどこにもいる。
自国批判にも2つある。「世界の他の国々を知り、その比較のうえで自国に批判的になる」というケースが1つ。もう1つが「他の国々を知らないために、他国を高みにおきすぎ、自国を過小評価する」という場合だ。
日本には外国の情報が溢れ、それらを参考にすることを半ば運命のように感じて生きてきたと思っている人が多いので、前者のケース、即ち外国との比較で自己批判していると見られる傾向にある。
「日本ほど世界の料理が充実している国はない」「多くの書籍が日本語訳になっているから、英語の本を手にとる必要がないのだ」という台詞に代表されるように、日本には輸入文化の特徴がある。
だから、この十数年間「内向きだ」と言われても、日本の人は他国を知って比較しているとの前提をとりやすい。
一方、日本は島国であり外国人と交流が少なかったとの認識が強い。実際は中国大陸や朝鮮半島の人と共生してきたはずなのだが、異なった文化との接触は少ないと自覚している。
輸入文化を誇りながら異文化に弱いというのは、一見、矛盾している。が、だからこそ、異文化をローカライズして自国文化のなかに定着するに熱心であったともいえる。
例えば、欧州各国の都市をみても日本の大都市ほどに各国料理を揃えていないが、外国文化の「侵入」をうけてきた経験は圧倒的に多い。よって、日本が輸入文化を特徴とすることにどれほどの意味があるのか、という疑問がでてくる。
そして、日本の普通の人が外国人と意識して接することが多くなったのは、外国人観光客が急増したこの数年である。それまでに日本企業が製品を輸出して「メイド・イン・ジャパン」が注目されていても、異文化経験は大企業のごく一部の人の経験に過ぎなかったのである。
とするならば、日本の人の自国批判は、他国との比較ではなく、他国を知らないために生じているとは言えないだろうか。外国のとても微細な情報を拡大して、それを比較対象におき悲嘆する、という具合である。
もちろん、かつて隆盛をみたいくつかの産業が劣勢になり、他の国にその十八番をとられる。あるいはデジタルトランスフォーメーションに乗り遅れている。尻を叩かないといけないことは沢山ある。
しかし、それだからといって「そもそも日本という国は、○○だからダメなのだ!」と大きな声で(たまに憎々し気に)いうほどに、日本は国際的にレベルの低い国なのだろうか。多々ある国際ランキングは、単に分かりやすい指標で比較しやすいように記載しているに過ぎない。
日本は先進国というカテゴリーに入っている。高度経済成長期の経済人の尽力の賜物であるが、ぼくは経済レベルだけではない、日本の人々の考え方の洗練さにおいて先進国であると思うことが多い。
それは言ってみれば、文化レベルなのだが、皆がよく引用する建築・工芸・文学などで代表させるのではなく、社会の全体的な眺望に対する解釈やそれに至る道筋において、日本の一般のレベルの人は洗練度が高い。
よくグローバリゼーションで国境を超えて人々の関心が一致している、と言われる。インターネットの普及による情報の共有化や社会問題の共通化などで、「どこの国の人とも、同じ言語で語りあえる」との声をよく聞く。
キャッチフレーズが同じである。したがって、あまりコミュニケーションをとらなくても、どこの国の人とも何となくある程度のことは議論し合えると思っている節がある。
残念ながら、ことはそう簡単ではない。先進国と先進国ではない人たちの間にある溝がある。独自の文化遺産のレベルという話ではない。それはどの国にあっても個々に称賛すべきものだ。
あることを考え、次にあることを考え、そうした積み重ねで今、ここにあるキャッチフレーズに達しているという、それまでのプロセスが複雑で距離が長い。つまり多角的に考えた歴史がある。それが先進国の人の考え方で、これをぼくは「洗練さ」と称している。
先進国ではない国の人たちが不足している「多角的に考える」との経験について、日本の人たちはもっと冷静に判断し、自分たちに自信を持って良いと思う。
新興国の事情にあまり右往左往する必要はない。考えるべきことはただ1つ。世界の歴史に自分たちがどう貢献するか、だけである。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。