【ビジネスパーソン大航海時代】リーダーの伴走者は「総力戦で社会課題に挑みたい」~航海(20)
ビジネスマンにとって自分が所属する会社が上場したらどんなに嬉しいことでしょう。特に取締役として経営に関与までしていたとしたら。今回は、その経験を経て、いまは企業やNPOなどの組織で社会課題に対して向き合う方々に向けてコーチングを手掛けているCarpeDiem社の海野慧さん(代表取締役)についてお話させてください。
海野さんは大学卒業後に勢いのあったスタートアップに入社、希望して子会社であったじげんに配属されたのちに転籍。事業管掌役員となり東証マザーズに上場されたそうです。M&Aの買い手側もご経験し複数の子会社の代表も務められました。
誰もが羨むキャリアを歩まれたわけですが、経緯を伺ううちに、そのジェットコースターのような人生に身が震えました。
それではインタビューをご覧ください。
「力を付けたい」からスタートアップへ
海野さんはどのような生い立ちなのか。まずそれから紐解いてまいります。
どのような子供時代を過ごされていたのですか?
「父は大手のサラリーマン、母は主婦という両親でした。小さい頃は海外で暮らしており、日本に帰ってきた時には逆にカルチャーショックを受けるようなシーンもありました。中学高校は東京で、高校時代に『世界がもし100人の村だったら』という本に出逢ったことをキッカケに世界の貧困問題に関心を持ちました。将来は国際協力開発の分野で仕事をしたいと考えて、大学は京都の立命館大学の国際関係学部に進学しました」
帰国子女だったのですね。大学時代はどのように過ごされていたのですか?
「国際協力開発に関心があったため、国際機関や政府の取り組みはもちろん、国際経済や国際政治、地域経済の活性化などの分野を幅広く学ぶ機会を頂きました。そのため当時はビジネスやITにはまったく興味がなく、というか知らず、在籍していた学部の授業を企画運営する学生団体に参画したり、日米学生会議という学生団体に参画したり、NPOの活動に参画したり、海外留学をしたりと色々と手当たり次第動いていた感じがします。ただ学びを深めていく中で、既存の国際協力開発は大変重要であり意義深いものであるものの、調べれば調べるほどその難しさも感じるようになりました。そもそもの社会の仕組みを大きく変える為には大きく既存の常識やルールのシフトをしなくてはならないと考えるようになりました」
なるほど。
「当時はGoogleが日本でも普及し始め、Facebookが米国中心に流行り始めた頃であり、インターネットが世界のゲームチェンジを図る大きなトレンドになっていると感じておりました。また、仮想空間内でアバターを動かせるセカンドライフというサービスがブームになったタイミングでもありそのサービスを見た時に衝撃を受けました。そのサービス内では、例えば家を建てたりモノを売ったりするなど、経済活動を行うことが出来、仮想空間内のリンデンドルという通貨で取引をすることが出来ます。それだけなら大した話ではないのですが、リンデンドルが米ドルに換金できる仕組みがあったのです。例えば日本やアメリカの子供がお小遣いとして5ドル稼いだとすればそれはおやつ代くらいにしかならないかもしれませんが、バングラデシュの子供が5ドルを稼げたら家族の生活費になります。インターネットは従来の社会システムに依存せず、まさにフラットな新しいシステムを構築していくのに欠かせないプラットフォームとなると考え、インターネットとビジネスの文脈から世界の社会課題へアプローチすることが、世の中をよくするパラダイムシフトに活用できるのではないかと思いました」
面白い視点ですね。それでITの世界に飛び込まれたんですね。
「はい。前述のインターネットの可能性を知るキッカケとなったのが学生時代に参画させて頂きましたドリコムのビジネスプランコンテストのインターンシップでした。このインターンを通じてインターネットとビジネスの面白さと可能性に触れさせて頂き、その流れで就職を決めました」
そしてすぐに現じげんである子会社に行かれたのですね。
「はい。研修が終わって配属を決めるタイミングで希望を出して子会社へ出向致しました。ドリコムは当時急成長していて100人を超える規模となっておりました。ただより力を付けたいと思った際に、より小さな環境でより多くの裁量と責任を持ってチャレンジしていきたいと常々考えておりました。当時のじげんはドリコム社とリクルート社の2社のJVでもあり、新興ベンチャーとメガベンチャーとも言える2社のカルチャーを融合させた環境が魅力的でした。またスタートしたばかりで人数も10名いない規模でしたので、手を挙げてチャンスを頂きました」
何もないスタートアップの世界からゴールを描いて上場へ
子会社ではどのようなことに携われたのですか?
「まず、営業職からはじまりました。ただ、当時は人も少ないのでなんでも屋になっていきました。経理も専任スタッフがいなかったので自分で売上締めたりですとか」
さすがスタートアップですね(笑)
「はい(笑)、でもこの経験から、いま無かったら自分でなんでもやるみたいな生き様が刻まれていきましたね。まさに裁量と責任を求めていたわけですし。最初特に大変だったのはそもそもの売上を作ることでした。当時はビジネスサイドの人員が新卒しかおらず、社会人成り立てのメンバーで何が売れるのかを試行錯誤する日々でした。とにかく新しい商品を企画して売りにいくもののなかなか売れなかったり売れても効果を期待値通りお返し出来なかったり。そこが非常に大変でした。新規事業も当時は10くらいあったものの、なかなか主要事業が立ち上がるまでは大変でした」
そうだったのですね。なにが転機になったのですか?
「とにかくお客様に喜ばれる商品を作ろう、というポイントだけは何よりも強くイメージしていました。それまでの失敗からも学び、当たり前のことかもしれませんが、それだけは絶対に成し遂げようと全員で決めていました。インターネット広告市場はまだまだ伸びしろがある市場でしたが、当時はまだインプレッション保証やクリック保証などのメニューが普通に販売される時代でした。一方で成果に注目した、成果報酬型の広告サービスはまだ多くなかった。その軸で考えた際に、成果報酬型メディアの構想を具体化し、スピーディーに立ち上げたところ手応えがある結果がついてきたのです」
転職EXですね。
「はい。まずその事業でしっかりとヒットを出し、そのビジネスモデルを他の領域にもうまく適用させて広げながら収益は右肩上がりになって行きました」
順調ですね!
「もちろんそんな簡単ではなかったのですが(笑)。そして会社名を“じげん”とし、MBO(マネジメントバイアウト。経営陣による買収)を行い、その後も成長をして参りました」
取締役になられるのは子会社入社して何年目くらいだったのですか?
「入社して6年目だったと思います」
すごいスピードですね!
「自分はもともと肩書きを欲しいと思ったことはなかったのですが、自分が事業責任者として経営に関与している会社という意識が上がるにつれて、マネージャーであることに歯痒さを感じ始めました。創業期のほぼゼロからこの会社の土台を自分で作ってきたからこそ、これからも誰よりもその成長を牽引していきたいと考えるようなりました。誰よりもその想いが強い自負もありましたので、自分から社長に対してどうしたら役員になれるのか?何が足りないのか?と問うこともありました。そして同時にたとえ肩書きがなくとも、自分が誰よりも会社を率いていきたいという自負と想いを明確に持ち続けて仕事に取り組もうと決意して推し進めた結果、取締役という役割を任せて頂くことができました」
そしていよいよ上場ですね。上場は一つの区切りであるとは思うのですがそこに向けてどのように取り組まれていたのでしょうか。
「入社して7年目にマザーズに上場しましたが、上場は当然のプロセスであると認識しておりました。当然IPOに向けて必要な準備プロセスはありますが、そこに向けて何かをしていたというよりかは当然の通過点として認識しておりました。むしろそこがスタート地点であるくらいのイメージで自然と取り組めていたと思います」
その時のお気持ちは?
「証券取引所の電光掲示板で流れる社名を見たり鐘を鳴らしたらもっと嬉しいものかと思っていたのですが、不思議なくらい嬉しいという感情はなかったんですよ。むしろここからがスタートだぞ、と身が引き締まる想いでした。“上場企業として、公器として、益々結果を出さなくてはならない”というスイッチが入った瞬間でもありました」
want toからhave toとなることでの挫折
ここまではジェットコースターのようなビジネス人生でしたがその後どうなりましたか?
「上場してからは更にジェットコースターのような怒涛の展開でした。とにかく成長させなければならないという思いで様々な施策に取り組みました。M&Aを戦略的に展開を始めたのもこの頃からです」
もともと営業職だったわけですよね。そこからM&Aを手掛けるなんてすごい。
「とにかくマーケットの期待に応えなければならないわけですからがむしゃらでした。シナジーはあるか、必ず伸ばせるかを徹底的に事前に検証して、買収したら経営陣を送り出して自らが経営の舵きりをして更なる成長を図るチャレンジをしていきます。私自身もM&Aの実務経験はこれが初めてでした。その戦略で行くぞと決めてからは経験者に話を聞いたり情報を諸々と調べたりと手探りながらもベストな道筋を考えとにかく進んでいきました」
その後役員を退任されたのですね。
「はい。よくある話ではありますが、上場はまさにプロセスでありスタートです。そこからの展開やチャレンジの方がハードでした。基本的には成果を生むことを常に念頭に置いていたのですが、逆に自分自身が何をしたいのか、というwant toは蔑ろにしておりました。結果としてhave toに縛られてしまい、自分の実力不足もあり、期待に応えられるパフォーマンスが徐々に出せなくなり、3年強で取締役を退任することになります」
それは激しい人生ですね。
「自分がそれまでの全身全霊を300%注いできた会社の役員を降りるという展開は正直めちゃくちゃ凹みましたし、お恥ずかしながら当時は再起不能かな、なんて思うこともありました。でも結果的にそれが自分自身を見つめ直すキッカケにもなりよかったと思っています。同時に当時ベトナムにあった子会社の代表となって現地の立て直しを行うのですが、結果としてそこでの仕事や生活が冷静に自分を見直す機会に繋がりました」
もう少し教えてください
「日本と全く異なる環境での仕事や生活を通して自分自身の持つ凝り固まった観念を俯瞰して認識することが出来ました。例えばアジアに旅行をされたり生活されたことがある方はイメージがつくかもしれませんが、皆さんすごく自然体なんですよね。例えば採用面談で志望動機を聞くと“家から近いから”という理由とかが普通に出てきたりするんです(笑)。また給与条件とかも日本だといくらの年収が欲しいってキッパリと面接で言う人って少ないと思うのですが、市場感の違いはあるもののベトナムではいくら欲しいと明言することが普通です。日本人だとつい“そんなこと言ってはいけない”と思ってしまいがちじゃないですか。こういった自分自身が保持していた観念に俯瞰的に気付けるようになり、無意識の内に縛ってしまっていたことに気付くことができ、あらためて自分自身の本質に目を向ける機会が増えました」
その後はどのような変化があったのでしょうか。
「ベトナムの立て直しが終わり、日本に戻り再び事業にコミットしていく生活を続けていく中で、あらためて自身のwant toとゴールを設定しなおし、その上でチャレンジをしようと決めました。会社へのコミットメントも今一度創業期の頃と同等かそれ以上に当事者として関わることを決めたのです。それまでは自分自身の結果が伴わないことがあったという負い目から、自分のwant toでチャレンジするのではなく、have toでミッションをクリアしようとする姿勢が強かった部分がありました。しかしそのような状態では本当のパフォーマンスは発揮出来ない、何よりも自分自身がチャレンジを心から楽しめない、と思い、勇気を出して自身の考えや想いを他の経営陣やメンバーに対して包み隠さずぶつけていきました。そうすることでそれまでうまく歯車が噛み合っていなかった点もしっかりと噛み合い、自分自身はもちろん、周囲の状況も刻々と変化していく様子を実感しました。そういった経験を経て、自分の心の声に素直になり、真っ直ぐ自身の思い描くゴールを設定してチャレンジしていこうとあらためて決意をかためていきましたね」
“社会家”を圧倒的に増やしていく人生へ
コーチングに関心を持たれたのはどういう背景なのでしょうか。
「今一度自分は何が好きなのかを見つめ直した時に、事業開発そのものはもちろんなのですが、物凄い勢いで成長し羽ばたいていくメンバーの様子を見ることが好きでした。メンバーのマネジメントを行う際には、どのような機会と環境がそのメンバーにフィットするかを常に考えてアサインをし、結果として当人のパフォーマンスが当人の想像を超えるような世界へと昇華していくプロセスを共に歩めることは私自身、非常にエキサイティングでした。無意識の内に良くやっていた、人の才能によりフォーカスを当てて開花させていきたいと考えたのが一つです。同時に『経営者の伴走者』という存在をより一般的な存在にしたいと考えたことも大きなポイントです。自分自身が経営を担っていた際に、メンターとなる方がいたことで窮地を乗り越えられた経験もあり、そういったオフィシャルな存在がもっと多くいても良いのではないかと考えたことも大きなポイントの一つです。またもう一つの大きなキッカケが、友人経営者がうつ病になって役員を退任したという話を聞いたことでした。その友人と色々な話をする中で、最前線でコミットする経営者ほど、そのチャレンジを最大化していくために伴走者もまた必要なのではないかとより一層強く考えるようになりました。目の前のことにがむしゃらになった時に、ふと本来の自分が目指したい世界を見失ってしまったりすることもあるのではないか。そんな時に今一度自分の目指したい世界やゴールを高い次元で描き直し、更に高くジャンプするための伴走者がいた方が良いのではないかと考え、コーチという仕事に行き着きました」
そこから深堀をされていったんですね。
「そうですね、あらためてゼロベースで自分が自分なりのアプローチで新しいチャレンジをしたいと感じた瞬間でもありました。そこでじげんを退職し、未経験の領域であったコーチングや認知科学の分野のインプットとアウトプットをこの1年間にて徹底して行いました。認知科学を学んでいく中で非常に興味深かったのが、自身のベンチャー企業での実践経験を認知科学的に綺麗に説明が出来ることです。なぜ組織として急成長を遂げられたのか、どういう理屈で私を含めた個々人の変化、成長が実現されてきたのか、その鍵は『現状の外』のゴール設定にありました。常に『初めて』常に『未経験』と言っても過言でもない創業期から拡大期を駆け抜けられたのは、まだ見ぬ理想のゴール世界の『臨場感』を高く持ち、『根拠の無い自信』を強く持って駆け抜けられたからだと考えています。気になる方は是非お問い合わせを頂きたいのですが、実践を通して試行錯誤してきたことの科学的裏付けをとりながら、同時にその再現性をより一層高めていくことが出来ると確信を深めていくことが出来ました」
学生時代に志されていた社会課題の解決にも繋がっていくのでしょうか。
「はい。人々の本質と可能性を最大化することでより社会に大きなインパクトを出していきたいと思っております。前職でビジネスに向き合い徹底してチャレンジをしてきたことも、元々は社会課題の解決を出来る力をつけたいという想いがあってのスタートでした。そして社会課題へのアプローチは1人だけで出来ることは限られてしまいがちです。私は、社会家、それは企業経営者やNPOの代表などをはじめとする社会に貢献するリーダー達に対して伴走を行いながら、いわば総力戦で社会を良くしていきたいと思っております」
最後にSankeiBiz読者の方にメッセージをお願いいたします。
「会社や上司からの指示や期待を一心に受けるビジネスパーソンとして、have toではなくwant toに生きることなんて出来るのか!?とつい考えてしまいがちだと思いますが、プロフェッショナルとして、本当に高いパフォーマンスを出していくために、本当の意味でコミットしていくためにはwant toを元にしたゴール設定が必須だと考えております。誤解を恐れずに言いますと、誤った“責任感”を纏うのではなく、責任を持つからこそ“無責任”にWant toに生きることこそがパフォーマンスを最大化すると思っております。是非読者の皆様も新しいチャレンジを目一杯楽しみ、社会を前に進めていく仲間としてご一緒できたら嬉しいです」
海野さんありがとうございました。
【プロフィール】小原聖誉(おばら・まさしげ)
1977年生まれ。1999年より、スタートアップのキャリアをスタート。その後モバイルコンテンツコンサル会社を経て2013年35歳で起業。のべ400万人以上に利用されるアプリメディアを提供し、16年4月にKDDIグループmedibaにバイアウト。現在はエンジェル投資家として15社に出資し1社上場。
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