最近、ミラノのデザイン文化についてリサーチしている。7月3日、武蔵野美術大学ソーシャルクリエイティブ研究所主催のオンラインイベント「ソーシャルイノベーションと文化のデザイン」で、ぼくも登壇することになっているからだ。
そこでミラノのデザイン文化について(も)話す。少々紛らわしいかもしれないが、「デザイン文化がどうデザインされてきたか」という話をするのだ。そのために冒頭で書いたように、リサーチをしている。
ミラノにはデザイン文化が伝統的にあると思っている人が多い。街角でみるファッションや家具のスタイリングや色の良さのなせるわざだろう。もちろん間違っていない。ただ、それはデザイン文化の一部だ。ぼくが「デザイン文化」という時、別の意味も込める。
日常生活において、生活する1人1人がさまざまに自分で選択肢をつくれ、それを自分で選べる自由がある。このことをデザイン文化と呼んでいる。
昨年11月に「リトアニアのデザイン史が教える審美性の価値 自由な社会づくりの礎」という記事を書いたが、その文中の下記が、ぼくの言う「デザイン文化」の効用例になる。
“カウナスでの実験的な数々の試みの結果見えてきたのは、デザイン文化の普及を図ることで、1人1人が「自分自身への自信や信頼」を獲得できたことだ”
拙著『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』に書いたが、イタリアの企業人は1人1人が独自に状況の文脈を読み解き、自分の進むべき方向を定める傾向が強い。つまりデザイン文化がある。
一方、リトアニアの例で紹介したが、デザイン文化はやはり審美性と密接な関係をもつ。質の高いモノなどを見慣れることは、自分の考えに確信をもつに有用な経験なのである。
それでは毎年4月に開催されるミラノデザインウィークをデザイン文化の一端と捉え、他国から来た人がイベント開催中にデザイン文化について学べることがあるだろうか?
1週間で毎年50万人を超す人たちが市内の500を超す場所、即ちショールームや展覧会などでデザインをネタに議論の輪を広げる。そして、その光景をミラノの人たちが「この時期、ミラノの市民であることを誇りに思う」と語る。
これはデザイン文化の全てではないが、重要な要素が散らばっている。もちろん、審美眼を刺激させてくれるものを浴びるほどに接する機会がある。それだけでなく、どういう組織や団体あるいは人がこの文化を育てる環境をつくり、毎年条件の微調整を重ねているかを知ることができる。
世界150カ国以上の人が訪れる家具の見本市と、その会場の傍に35歳以下の世界中のデザイナーたちが自分たちの作品を見せる場をつくる企業。市内の地域ごとにイベントを統合させる企業や団体。これらのすべてを1つのブランドとして後押しする公的機関。それらを発信するメディア。役者は驚くほどに多い。
この役者たちが、何をどう考え、何を教訓としているのか。誰かが企画書を携えて渡り歩いて1つにまとめるよりも、それぞれに話が日常的に通じるネットワークがあり、そこに関心を惹きやすい企画を持ち込めば「実施に向けて動きやすい」。
その全体の構図と機能の仕方に、デザイン文化を学ぶヒントがある。
ミラノで活躍するデザイナーを中心としたデザイン文化、家具や雑貨のメーカーを率いる経営者のデザインへの理解を中心とした文化、これまでこれらについて語られることが多かった。ぼく自身も、そうだった。
あえてミラノデザインウィークを上記とは別の側面からみるとすれば、イタリアの生活の質を知る機会との理解のされ方が普通だ。
だから、ミラノデザインウィークを「日常生活において、生活する1人1人がさまざまに自分で選択肢をつくれ、それを自分で選べる自由がある」社会を醸成する実験の機会と考えると、自分自身の考察の不足や流布している情報が充分ではないことに気づくことになる。
よって新たな知識を得るために、これまであまり縁のなかった人たちにコンタクトしている。主にコンセプトを考えることを生業とするか、得意とする人たちだ。まったく遠いところにいたわけではなく、近いところにいたのだが、縁がなかったのだ。共通の友人はたくさんいるが、直接は知らなかった人たちである。
あの丘の先には、こんな風景があったのかと実感している。そうか、「丘の向こうに行くには越え方がある」と上手く勘が働くような雰囲気、これもデザイン文化の1つかもしれない。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。