社会人になってかなり時間を経てから学校の勉強が苦手だった、とぼくは気がついた。学校に通っているとき、それに気がつかなかった。愚かにも程がある。
学生のとき、さほど優秀ではないが、苦手とは自覚していなかった。成績が良くないことと、勉強が苦手ということが直接つながっていなかった。
友人が「俺は学校の勉強が苦手だ。自分の関心のあること、自分が生きるに有益と思える勉強はするが、勉強のための勉強ができない」と自嘲気味(あるいは、自慢げ)に話していた。
彼は強烈な個性がある人間だった。彼の自宅の部屋にある膨大な書籍を眺めながら、それはそうだろうとぼくは思った。こんなにも関心の対象がはっきりとしているのだ。ぼくのような普通の人間には吐けないセリフだ、と頭を垂れた。
社会人になっても、講演会で講師の話を聴衆の1人として聞いて眠くなるのは、登壇者の話がつまらないからであって、散漫にしか人の話を聞けないぼくの能力の問題だとは想像していなかった。
しかしながら、ある時、一定のテーマについて短期間で資料を猛烈に読み込み、人に会いまくるという自分の行動パターンが繰り返されることに気がついたとき、「ああ、こういう風に熱中できるテーマを学校では見いだしていなかったのか(だから机に伏せて寝ていたのか!)」と考えた。それでやっと、つまり学校を卒業してかなり年数を経て、学校の勉強が苦手であったと認識した。
要するに、自分の関心のもったテーマを自分がプロジェクトとして推進する際、必要な理論武装のためにはエネルギーを注げる。学生時代の友人の言葉が今ごろになって分かったのだと、若干、忸怩たる思いも抱いた(今さら、自慢にもならない年齢になっていたのだが)。
文章を書くこともそうだ。自分に引き寄せて書けないテーマについて、分析的な文章が書けない。論じる対象のサイズの大小ではない。サイズが大きなテーマでも、自分のやっていること、その範囲で考えていることに繋がると自分が思えるのであれば苦労せずに書ける。
つまり世界のことを主観的に描けないと、ぼくは文章が書けない。最初の主語が大きくても、結論で「ぼく」に落とし込めるのであれば書けるのだ。
大きすぎる主語で考えるなとよく言われる。「日本が」とか「米国が」とかは良くないと。ただ、政府関係者なら当たり前に国を主語とするだろう。
国が主語になることの是非は、国との関係が一人称単数にどう繋がっているか不明なことが多いからだ。政府関係者としての「国」なのか、納税者としての「国」なのか、外国人の友人に話すときの「我が国」なのか。自分の勤める企業なら、主語を企業名として出すのは、国よりも関係がはっきりしている。
ぼくもいろいろなシーンで何を主語にすべきかを迷う。日本の人の一般的な行動パターンを説明するとき、「私たち」とするか「彼ら」とするかも1つの分かれ目だ。模範的には、すべて「私たち」なのだろう。
しかし、ぼくがミラノにいる今、日本にいる人たちの現在の行動を説明するに「私たち」は不正確である。そういうとき、「日本の人々」と表現せざるをえない。だが、批判をかわすために、我が身を安全地帯に避難させているという後ろめたさを伴うこともある。
いつも当事者として適切な主語を選択することは、とても難しい。ただ、妥当性はさておき、主語が最終的に自分の何かの経験や当事者意識に結びつけば、少なくとも発信することに躊躇はなくなる。
要は、(あくまでもぼくの場合だが)勉強も文章を書くのも、当事者としての自分をどこまで自覚するか次第ではないかと考えている。逆に言うと、他人の文章についても「当事者観」とでもいうべき姿がみえないと、あまり読む気になれない。
仮に語る対象のサイズの大きな話を分析的に論じていても面白いとすれば、その筆者が自らの当事者観を上手く入れ込み、かつ読者にも当事者観を忍ばせるのに秀逸なのだ。
人には2つのタイプがあるのだろう。
一方は当事者としての意識をもてないと勉強ができず文章を書けない。他方は当事者意識とはまったく関係なく、勉強ができ文章を書ける。言うまでもないが、学校の成績が良い人は後者である。そして、その人が当事者意識をフル回転させると、ものすごい成果を出したりする。
でも成績の良い人は少数派だ。多くは前者である。とするならば、多くの人にとっては当事者意識の持ち方こそが勝負どころというわけだ。
ゆめゆめ、前者に属する人は後者のタイプに憧れをいだき、大きなサイズを対象に主語のはっきりしない分析的な語り口を真似してはいけない。(今回も)自戒をこめたコラムである。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。