人は納得することが大事だ。それが決断につながり行動につながる。
「君が自分で納得することが大事なのだ」と他人に何度も言われ、同様に他人に何度語ったことだろう。このセリフに縁のない人を知らない。
人生のさまざまな分岐点でどちらに進むべきかを考え、結果がどうであろうと自分が納得さえしていれば、その先も前向きに進める。
だから「納得した」という言葉に対する他人のコメントは、「君は本当に納得したのか? それでは次の一歩を踏み出すのだね(あるいは、踏み出さないことにしたのだね)?」との確認を求める言葉になるだろう。
「それを納得とは言わない!」と他人がどう騒ごうと、本人が「いや、納得している!」と断言すれば、話はそこで終わる。
さてこの数カ月間、ソーシャルメディアで「これは腹落ちする説明だ」「これは納得できる」というコメントを散見することが多い。新型コロナに対する記事やコラムを引用して「これは納得がいく」と書いている人のことだ。ウイルスの性格や特定の国での感染者の多寡を解説した記事やコラムである。
それらの筆者が感染症の専門家である場合もあるが、大多数はその近辺にいる人か、まったくの素人である。
そうした文章を漁るように読んで、とにかく何らかの安心や用心の糧にしようとする人が、殊に3月から4月頃はとても多かったように思える(ぼくも、その1人だった)。
だが世界のあらゆる国に感染が広がり、国ごとの感染状況の違いは単なる時差であった場合も次第に明らかになる。結局、感染初期から言われた「この新型コロナについては分からないことがまだ多すぎる。だから『分かった』という言説には疑いをもて」という一点は正解であることが分かった。
それにも関わらず、東京での第2波の可能性が盛んに報じられると、この「にわか分析」がまたより闊歩するようになった。
ウイルスについて不明な点が多く、免疫やワクチンについても素人が判断できる領域ではないと多くの人が「納得!」していたのに、だ。あいかわらず、断定的な表現に対しても「これは納得がいく説明だ」とコメントする。
ぼくは、どうしてもこの現象に納得がいかない。「素人の私でも納得がいく説明だから、この医師の解説は聞くに値する」とのコメントは、一体何を意味するのだろうか?
行動指針のとりあえずの助けになる可能性は否定しない。だが、そんなにたくさん行動指針は増やしていいものだろうか。なによりもまず、ぼくたちはこんなにも安易に納得を唯一の基準にして良いのだろうか?
ことは感染問題に限らない。
手元にある新明解国語辞典で「納得」をひくと、「他人の言行をよく理解し、もっともだと認めること」とある(因みに、理解は「物事に接して、それが何であるか(を意味するか)正しく判断すること」)。
納得とは論理上や倫理上の正しさからのみ導かれるものではない。論理や倫理との整合性は図るが、それだけでは納まりきらず、個人的な心のあり方まで関わってくる。したがって「論理的には詰め切れていないが、俺はこれをしたいのだからする」との自分の心持を自ら許すのである。
そうするとどんな状況がありうるか?
「多くの人が納得してそうだから、自分も納得する方が楽だからついていく」とのパターンも出てくる。
論理的な詰めが甘くても自身の意思や欲求を優先したい。その場合の納得は歓迎だろう。世の中は論理的に説明できないことだらけなのだから。
一方、論理的な詰めを求めるのは無理だから、他人の納得に従う自分に納得するのはお勧めできない。これは自らの自由を放棄している。
とるべき道は、納得しない自分に耐えることだ。あるいは、納得しない自分に納得することである。
これができると、例えば論理的な正当性が得られず、自分の欲求も満たさないことを、無理なかたちで引き受けなくてすむ。そして後になって「なんで、あんなので納得したフリをしたのか」と後悔しない。
納得しない状況は、正直いえば落ち着きがさほどよくない。だが、それも馴れの問題だ。その揺れる自分を自然と泳がせる、もう1人の自分をセットできれば何とかなる。
「もう1人の自分なんて難しくてセットできない」と嘆くなかれ。誰でもできる。一度設定できれば何回でも使える。しかも使えば使うほどに成熟していくはずだ。これで納得できるかな? 笑
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。