欧州と北米を中心に高級ホテルチェーンを展開する企業が運営するラグジュアリーサービスを指南する学校がロンドンにある。生徒はハイレベルなプチホテル、カーディーラー、ファッションのショップそしてロイヤルファミリーなどで働く人だ。いわゆるホスピタリティ産業の人たちだけが対象ではない。
この学校のディレクターの話をウェビナーで聞く機会があった。ふんふんと聞いているうちに、ぼくが唸った部分がある。
視聴者からの「具体的にどういうことを教えるのですか?」との質問に対するディレクターの答えだ。以下である。
「どのようなタイミングにどのような表現で、お客様のお名前をお呼びするか。これが一例になります」
ホテルのフロントでカウンター越しに名前を呼ばれることは、まったく普通の経験だ。タクシーで玄関に到着した際、降りてくる乗客の顔をみて「○○さま、いらっしゃいませ」とドアマンに声をかけてもらうと、常連のことをよく覚えている名物ドアマンの逸話と思う。
だが、まだ学生の頃に家族と一緒に泊まったホテルに、結婚した自分自身の家族を連れて20年ぶりに出向いた。その際にコンシェルジュから名前を呼ばれたら、どうだろうか。
(実はぼくは人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。以前に会ったかどうかもよく覚えていないイタリア人の知人から、ミラノの街中で突然名前を呼ばれただけで感激する人間だ。彼らにとって珍しい日本人の名前だから覚えていてくれたといえ、全く普段は縁のない名前が記憶から一瞬に蘇るのはすごいと思う)
20年ぶりに訪れたホテルでコンシェルジュに名前を呼ばれたらきっと嬉しいに違いない。それもホテルの顧客データがきちんと保管されていたからと思わせない(かつストーカーと思われない)何気ない声の調子であれば、これほどに幸せを感じる経験もないだろう。
これがパーソナライゼーションの手本であり、ラグジュアリーの極みなのだと気づいた。
パーソナライゼーションの動向はそこかしこで聞く。殊にデジタルデータの蓄積から広がるパーソナライゼーションの可能性が頻繁に語られる。そしてネットでの「あなたへのお勧め」との中途半端なパーソナライゼーションに何度ガッカリさせられてきたことか。だからパーソナライゼーションの根源にあるものをそう本気で考えることもなかった。
しかしながら、胸が幸福感でふと一杯になる瞬間は、他人に名前を呼ばれた時だとの極めてシンプルなことで目が覚めた。
毎朝、小学校で授業がはじまる前に先生が生徒の出席を確認するために名前を呼んでくれた。それで喜ぶことはなかった。だが、風邪で数日休んだ後に登校したとき、先生に廊下で呼び止められ体調を聞かれるのは嬉しかった。
大学を卒業して10数年を経た頃、ローマで開催されたあるパーティに出席した時、元学長から「君はどうしてここにいるのですか?! 君は私の大学の学生でしたよね?」と先方から声をかけられた。学生時代、学長と接する機会など殆どなかったが、キャンパスで交差して記憶にあったのだろう。名前は知らずとも、ぼくという存在を覚えていてくれたのには心底驚いた。
自分がここに生きていることを他人が記憶にとどめておいてくれる。その象徴的な表現が名前の呼び方なのだ。
前述のディレクターは次のようにも語る。
「ミレニアル世代やZ世代への対応はどうすべきか? との質問も受けます。私どもはパーソナライゼーションのサービスを基本としているので、世代という属性にあえて配慮する必要がありません」
今さらながらにして、パーソナライゼーションとはマスを相手にした時にこそ対比的に出てくるアプローチなのだ、と思い知らされるコメントである。1人1人を相手にすることが当たり前であるなら、年代や社会層から人を判断する必要はない。そして、その基本は相手の名前をベストのタイミングで適切に呼ぶことなのだ。
どれも言われてみればまったく当然のロジックだ。何も珍しいことはない。しかし、こうした当然のロジックをどこか忘れさせるマスの世界の思考に浸りきっていると、突如として「当然」に目が開かれる思いがする。
日々の日常生活のロジックと仕事の世界とのロジックに乖離が生じている証拠だ。2つのバランスをたまに検証してみたい。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。