この数カ月、外出を大幅に控えざるをえなくなったが、すべてがすべて悪いことばかりではない。英語の本の日本語翻訳版のためにじっくりと腰を据えて作業に取り組むことができた。まだ校正などのプロセスがあり、これからも神経を集中させないといけないが、この数カ月の「缶詰状況」が幸いしたのは確かだ。
また3つほど、日本の人たちとオンラインでの定期的な読書会や勉強会をスタートさせた。どれも限定したメンバーだけで行っている。
1つはヨーロッパ史に関する本を読んでいる。毎回、各自が本の1章を1000字でまとめ、250字で今回の内容で自分にとっての発見を書く。これまで古代ギリシャ以前の社会についてあまり考えてこなかったが、キリスト教とイスラム教が誕生する前の社会のありようや考え方を知るのは思いのほか楽しい。
2つ目はラグジュアリーの新しい意味を探ることを目的としている。従来のラグジュアリーが飽きられ限界に近付いていると思われるなかで、新しいラグジュアリーの意味をどう探っていくと良いのかを議論している。ビジネスと哲学の両方に関わってくる。
3つ目はソーシャルイノベーションについて勉強し議論している。ソーシャルイノベーションが世界のなかで重要なキーワードになってきているが、どうすればソーシャルイノベーションのロジックを使いこなせるか、これも本を章ごとに読み疑問点などをまとめて議論している。
こうした勉強会を実施するのは、この数カ月以前にも技術的に可能だった。しかしそういうアイデアさえ浮かんでこなかった。
スカイプとズームの違いとか、そういうビデオアプリの仕様の問題ではまったくないのだ。遠い距離にいる人と定期的に一緒に勉強するという発想自体が生まれなかった。
あえて言えば、2つ目のラグジュアリー領域の勉強会だけは、今後何らかのムーブメントをおこす準備が必要と考えはじめていたことなので、他の2つとはやや性格が異なるかもしれない。それでもやるならリアルで実施することを前提にしたに違いない。
同じ本を他人と一緒に読む習慣はこれまでなかった。遠く学生時代の読書会の経験しかない。しかし、読んで文章に概要をまとめ、それを基に議論することが頭のなかを整理させてくれ、かつその次に考えるべきアイテムが自ずと浮上してくる。これは新しくものを考える「起動装置」だと気づいた。
旅行もしづらく人ともリアルには容易に会えないなか、とりあえず今年前半は学びの時間を増やそうと思い、これまでまったくフォローできていなかった類の本を次々にキンドルにため込んできた。
これまでのぼくの習慣だと、何かと何かを関連付けるためのヒントを探す読書を意図的にしていたが、今はそもそも「何のため」をあまり考えることがない。だが、こうした読書が自ら考える範囲を拡大してきていると、この半年の終盤になって意識するようになった。
さて今考えているのは、これから半年(といっても、正確には残り5カ月だが)は、前半に議論した内容を公開する、あるいはその議論の一部をオープンにする、といったことだ。
インプットと熟考をある程度進めてくると、アウトプットしたいとの気持ちが自然に芽生えてくる。その延長線上としては、いつもやっている議論の一部をオープンにするのが無理ないような気はする。これまでの議論をまとめようとすると取捨選択のプロセスで、自由であるからこそ出てきた考えのエッセンスを粗削りであるとの理由で捨て去ってしまう可能性がある。
いや、意図的に捨てるのであればその記録は残るのだが、無意識のうちに脇にどけ、そのまま知らないうちに視界からなくなってしまう。
一番大切なのは、考えた欠片をどう保管するかである。知識はどこかのアーカイブなどに何らかの手段を使って到達できれば、一度忘れても回収可能だ。しかし、自分の頭で考えたことは、ある形になるか、強烈なイメージなりとリンクしていない限り、未来永劫戻ってこない。
どのようにして考えの欠片をキープしておくか。これにはいつも注意を払っておかないといけない。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。