ビジョン流行りだ。ビジョンなきところに前進はない。そう熱く語られる。ビジョンをどうもてば良いかとの書籍も多い。
ぼく自身も講演などでビジョンの大切さを語ることが多々ある。だからビジョンの重要さを推進する側にいる人間である。
ただ、一方でもう1人の自分がいる。ビジョンはコロコロ変わるものだ、と見切っている。状況とその時の気持ちでビジョンは変わっていく。それを朝令暮改だと批判するわけではない。逆だ。その変貌をそのまま受け入れる派だ。
こう考える2つの個人的経験がある。
1つは極めて私的な話で恐縮だが、ぼくが結婚を決めたとき、当時のボスに言われたことだ。
出逢いから結婚の決意までの時間が相当に短かったのだが(僅か1週間だ)、そのことをボスに報告した際、「どうして結婚を決めたのだ?」と聞かれた。
咄嗟にぼくの口から出た言葉は「彼女とビジョンを共有できると思ったからです」。即座にボスに突っ込まれた。「そんな理由で結婚を決めるものじゃない!」と。
ビジョンの共有を「そんな理由」と表現されたのである。
「俺の知りたいのは、君が彼女と動物的な感覚で一緒にずっといたいかどうかなんだ。ビジョンなんて、これからどんどん変わっていくものだから、そんなことで結婚をするものじゃない」
もちろん、ぼくは即、動物的感覚で惹かれたのが前提であると言葉を付け加えた。だが、ぼくは自分が小賢しい理由を出した気になり、「ちっとも分かっていなかったなあ」と反省した。
それから十数年を経たクリスマス。動物的な感覚を大切にしていたボスの奥さんが急死した。その彼女はとても面倒見のよい女性で、自分たちの実の子4人、養子4人の合計8人の子育てをしながら、親がドラッグや病で十分な世話をかけてもらえない子どもたちの支援もしていた。
八面六臂とは、こういう夫婦のためにあるような表現だが、特にこの奥さんの起動力はすさまじかった。旦那さんである、ぼくの元ボスは、その天真爛漫とエネルギーの塊が混在した女性に「動物的」に惹かれ、彼女は彼女で日々の冒険に挑む男性に惹かれていたのだと思う。
クリスマスの翌日、大雪に見舞われたトリノの教会で葬式が行われた。その際、亡くなった彼女と長年のつきあいがあった神父が、ミサのなかでこう語った。
「彼女は、遠くにあるビジョンを見つめながら、毎日、毎日、ほんとうに細々とした雑事に手を抜かずにこなしていました。そうしながら、彼女はその細々としたことを、ビジョンにインテグレートしていったのです」
イタリア語でこの話を聞いた瞬間、ぼくはインテグレート(integrate)という言葉が身体で分かった。インテグレートに対して、構造を事前の設計に沿ってつくっていくとのイメージをそれまでもっていた。が、日々の諸々をアップデイトしながらビジョンに練り込んでいくことでカタチにしていくプロセスなのだと気づいた。
ちょうどぼく自身、これまでの仕事のキャリアの数々をすべて投入できるプロジェクトに出会い、新たに進むべきある方向が見えていた頃だ。まさしく、その時の思考や振る舞いをインテグレートとの言葉で括れると、神父の言葉で実感したのである。
恩人の葬儀で受け取った贈り物だった。今からもう十数年前の話だ。
ビジョンとは固体として捉えるべきものではなく、液体のようなものだ。だからほっぽっておくと誰にも気づかれないどころか、本人も自覚しないと忘れてしまう。
こんなことで結婚を決めてはいけないのは、その存在とそのカタチが危ういからではない。それこそ動物的感覚などもっと危ういかもしれない。
ビジョンに気をつけなければいけないのは、それが一見、純粋な知的活動の成果であるかのように見えることがあり、したがってロジカルであり、人間の高次なところに祭りあげられる体裁をとりやすい点だ。
ぶっちゃけた表現をとれば、熱量の高いエラソーな存在になりやすい。やっかいなのは、一度格好をつけると、その後、ドレスダウンが大変なのだ。ビジネス活動から男女関係に至るまで、極力避けて通りたい落とし穴だ。
ゆめゆめビジョンなどで婚約に至らぬようご忠告申し上げる。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。